人形佐七捕物帳 巻四 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  幽霊姉妹  浄玻璃《じょうはり》の鏡  三人色若衆  生きている自来也  河童《かっぱ》の捕り物     幽霊姉妹  朝湯の評判|灯籠《とうろう》流し   ——きれいな年増が泳ぎのけいこ  現今でもよく話の種になることだが、江戸時代の銭湯というやつは、まことにどうも不潔なものだったそうで。  いまではもう、見ようったって見られないが、ざくろ口なんて妙なものがあって、そうでなくても湯気でもやもやしている湯舟のなかは、薄暗いのなんのって、うっかりひとの悪口などしゃべっていると、当の本人がちゃんと、うしろで聞いていたなんてことも珍しくない。  神田お玉が池の近所にあるさくら湯、このさくら湯の流し場で、いましも三人の男がおもしろそうに、話に花を咲かせていた。  ひとりは横町のご隠居で、これはもういたって暇人、もうひとりは金太郎というこのかいわいの仕事師、いまひとりは幸助といって、ついちかごろ、近所の裏店《うらだな》へ引っ越してきたひとり者。年がわかくて色白のちょっといい男だが、なにをする男だかわからない。  態度、口のききようから判断すると、いずれどこかのお店者《たなもの》だったらしいが、どうしてこんな裏店へ逼塞《ひっそく》するようになったものか、ひとも問わねば、じぶんから語りもしないから、だれもその事情をしっている者はない。 「これこれ、金ちゃん、さっきからみてりゃ、おまえいやに念入りにみがきたてるが、なにかお楽しみの筋でもあるのかえ」 「へへへ、なにね、ご隠居さん、きょうはお盆の十六日、ほら、向島で山宇《やまう》の灯籠流《とうろうなが》しがあるんで、それを見物にまいろうと思いましてね」 「そうそう、山宇の川|施餓鬼《せがき》といやあ、このあいだからたいした評判だが、それにしても金ちゃんがそんな風流気を起こすとは受けとれないね。まさか、施米《ほどこしまい》が目当てじゃあるまいが」  と、幸助が足の指をごしごし洗いながら、からかいがおにそういえば、 「ご冗談でしょう、いかにおれが貧乏だって、まだそんなさもしい了見は起こしませんのさ。なにね、れいのがぜひ連れてけってきかねえんでさ、へっへっへ」 「おやおや、朝っぱらからのろけかえ。だが、それにしても、山宇もちかごろ奇特な志をおこしたもんだな。水死人の供養のために灯籠流しとは思いつきだ。なおそのうえに、貧民に施米をするというのだから、ちかごろもって感心な話じゃて」 「なあに、ご隠居さん、それにはわけがあるんですよ。おまえさんも知っていなさるだろうが、ことしの春の花見時に山宇の姉娘のお通というのが、向島へ舟遊山に出かけたところ、どうしたはずみか舟がひっくりかえって、ほかの連中みな助かったのに、お通だけがゆくえしれずになりました。今夜の灯籠流しも、つまりその姉娘の供養というわけでさ」  金ちゃんが得意になって話すのを、幸助はうつむいたままだまって聞いていたが、なぜかその顔色はまっさおだった。  そうとはしらず、隠居はにわかにひざをのりだして、 「そうそう、あのときはたいした評判だったな。お通というのはとしは十七、木場小町といわれるほどのきりょうよしだったそうだが、いや、惜しいことをしたもんだ。ところで、金ちゃん、幸さんも聞いておくれ。山宇のはなしで思い出したが、ここにひとつ妙な話があるんだよ」 「へへえ、妙な話といいますと?」 「さようさ、いまから十日ほどまえのことだが、三叉《みつまた》へハゼつりにいったと思いなさい。あのへんにいいつり場があるので、その日も葭《よし》の茂みに舟をつないで、つりをしていたんだ。朝早くのことだから、あたりにはひとりもいない。ところが、そのとき……」 「海坊主でも出ましたかい」 「まあ、そう混ぜかえさずにお聞きよ、金ちゃん。わたしがつりをしているところから、真正面にみえる向こう岸に一軒の寮がある。その寮のなかから一隻の小舟がこぎ出してきたんだ。みると、舟に乗っているのは、としのころ三十五、六の、水の垂れるようないい年増だ。それが川の中央までくると、いきなりざんぶと、水のなかへとびこんだから、わしも驚いたな」 「だれがとびこんだんです? 船頭ですかえ」 「いえさ、船頭なら驚きゃしない。年増のほうがさ」 「へへえ、そいつは妙だな。身投げですかえ」 「ところが、身投げでもない。わしも驚いてな、あわやとびこんで助けてやろうかと思ったんだが、考えてみるとわしは金づちだ。仕方がないから、船頭のようすを見ていると、これはちっとも騒がない。舟のうえからじっと水のなかを見つめているんだ。ところが、そのうちに、いったん水のなかへしずんだ年増がぽっかり浮かびあがると、なんとおまえ、これがみごとに抜き手を切って、岸へ泳ぎついたから、わしも肝をつぶしたよ」 「へへえ、着物をきたままですかえ」 「そうとも。しかも、これが岸へあがると、にっこり笑って手招きするんだ。なに、わしじゃない、その船頭をさ。すると、船頭はするする舟をかえして、そのままふたりとも寮のなかへ入ってしまった。あまり妙な話だから、かえりに近所できいてみると、その寮というのが山宇のもちもので、年増というのはどうやら山宇の後妻で、お妻という女らしいのさ」  と、そこまで聞いて、幸助はぎょっとした顔色だった。うつむいたまま、夢中で脛《すね》をこすりながら、 「ご隠居さん、それはほんとうの話ですかえ」  と、そういう声もふるえている。  隠居はそれとも気がつかず、 「ほんとだとも、じつに妙な話さ。なんのために山宇のお内儀があんな場所で泳ぎのけいこなどしていたのか、とんとがてんがいかないのさ」 「まさか。——着物のままで泳ぎのけいこでもありますめえ。あやまって舟から落ちたんじゃありませんかえ」 「いや、そうじゃない。わしは最初から見ていたんだが、たしかにじぶんでとびこんだのだよ。そうそう、それからさっき船頭といったが、あとで聞くとそいつ船頭じゃなく、山宇の大番頭で、茂左衛門《もざえもん》という男らしいんだ」  と、夢中になって話しているうしろから、 「ご隠居、そりゃほんとの話ですかえ?」  と、ざくろ口のなかから声をかけた者がある。  一同なにげなく振りかえったが、そのとたん、ご隠居より幸助のほうがさっと顔色をうしなった。それもそのはず、声をかけたのはお玉が池の人形佐七、その左右には例によって、きんちゃくの辰とうらなりの豆六が、太刀持ち、露払いといったかっこうでひかえている。  幸助はうつむいたまま、わなわなくちびるをふるわせた。  舟の中からお通の幽霊   ——鬼火のように燃えあがって 「親分、いまの話をどうお考えですえ」 「そうよなあ。木場の山川屋|宇兵衛《うへえ》といやア、お城御用の材木問屋、そういう大家のお内儀のしわざとしちゃ、ちとすることが荒っぽすぎるな」  それからまもなく、さくら湯を出た人形佐七は、なんとなく腑《ふ》におちかねる面持ちだった。  豆六はしたり顔で、 「親分、こらなんだっせ。娘がこの春おぼれ死んだんで、またぞろ、そんなことがあったら大変やちゅうのんで、泳ぎのけいこしてるんだっせ。こんやの灯籠《とうろう》流しにも、おかみさん出かけるにちがいおまへんが、そのとき、もしものことがあったら大変やちゅうわけだっしゃろ」 「べらぼうめ、それにしちゃ手回しがよすぎらあ。舟を出したからって、沈むたアかぎるめえしよ」  と、きんちゃくの辰、これはなんでもいちおうは豆六の説に反対しなければおさまらない。 「そこがそれ、用心のええとこや。たとえにもいうとおり、転ばぬさきのつえちゅうてな」 「用心もことによらあ。なにも着物をきたまま、泳ぎのけいこをするにゃあたるめえ」 「そやかて、兄い、だれかて着物をぬいで、舟のひっくりかえるのん待ってるわけにはいかんやないか」 「ちょっ、てめえのいうこと聞いてりゃ、まるで今夜、山宇の舟がひっくり返るにきまってるように聞こえるじゃねえか。縁起でもねえこといってると、山宇の若いもんにぶん殴られるぜ」  と、例によって辰と豆六、負けずおとらずの両雄持して相譲らない。  ふたりが口角あわをとばして応酬しているのをぼんやりきいていた人形佐七、なに思ったのかぽんとかしわ手をうつと、 「そうだ。おめえたちのいうとおりだ。辰、豆、それじゃひとつ、こんや灯籠流しを見物にいってみようじゃねえか」  世のなかには、なにがきっかけになるかわからない。隠居のおしゃべりから、その夜、佐七はふたりをつれて大川へ舟を出したが、これぞ怪事件に巻きこまれる糸口とこそはなりにけりというところだ。  さて、深川は木場のほとりで、材木大尽といわれる山川屋宇兵衛、これをいかなる人物かというに、もとはおなじ木場のさる材木屋に、手代としてこきつかわれていた男だが、いまからちょうど十年まえ、江戸に大火のあったみぎり、木曽|檜《ひのき》を一手に買いしめ、それが大当たりにあたって、爾来《じらい》とんとん拍子に身代をふとらせたにわか分限者。  あるじの宇兵衛はことし四十二、三の男ざかり、働きざかり。娘がふたりあって、姉をお通といって十七歳、妹をお島といって十四歳、どちらも負け勝ちのないきりょうよしで、木場の姉妹小町といえばとおりものだったが、姉のお通はことしの春、おもわぬ災難から、あたらつぼみの花をちらしてしまった。  というのはほかでもない。  さくら湯でもうわさにのぼったとおり、この春、お通お島の姉妹は、あまたの女中や手代をひきつれて、向島へ舟遊山に出かけたのだが、そのせつ、どうしたはずみか舟がひっくりかえって、ほかのものはぜんぶぶじに助かったのに、お通ひとりは水底深くしずんでしまって、ついに死骸《しがい》もあがらなかったのである。  なにがさて木場大尽の総領娘、しかも小町と評判のきりょうよしだから、これが評判にならずにはいない。読み売りにまでうたわれて、あわれな娘の最期に涙をしぼらぬものはなかったが、すると、それとどうじに、ここにちょっと妙なうわさがたった。  というのは、お通とお島という姉妹は、それこそは他のみる目もうらやましいくらいの仲よしだったが、これが腹からの姉妹じゃなかった。姉のお通は亡くなった先妻の娘、それにはんして妹のお島は、後妻お妻のひとり娘。さればこそ、世間の口はうるさい。  それはさておき、非業に死んだこの姉娘の供養にもと、流灯会《りゅうとうえ》をするというやさき、後妻のお妻があられもない泳ぎのけいこをしていたというのだから、これは佐七ならずとも、いちおう小首をかしげるものむりはなかった。  さて、その夜、向島あたり水のうえはたいへんなにぎわいだった。 「おやおや、こらまたえらい人出やな。こいつらみんなお米を目当てに出てきよったんやな」  豆六はれいによって、あたりはばからぬおしゃべりだ。 「よけいなことをいうもんじゃねえ。それより、山宇の舟をよく見張っていなきゃいけねえぜ」  と、つかずはなれず、佐七をのせた小舟は、山川屋宇兵衛の屋形船の周囲をうろついている。  その山川屋宇兵衛の舟には、あるじの宇兵衛に後妻のお妻、それから姉をうしなった妹娘のお島、なるほどとしはまだ十四の子どもだが、これが大きくなったら、どんなに美しくなるだろうと思われるようなきりょうよし、非業の最期をとげた姉を思いうかべてか、うっすらと目に涙をたたえているのもいじらしい。  舟のなかには、このほかに大番頭の茂左衛門も乗っている。  やがて灯籠流しの時刻になった。  さて、その夜、山宇の供養の灯籠というのは、業平《なりひら》の古歌にちなんで、都鳥のかたちをした絹張り灯籠、そのなかに火ざらをいれて灯をともすと、 「それ、お島、おまえから」  と、宇兵衛のことばに、 「はい、それでは姉さん、なむあみだぶつ」  と、かわいいくちびるで念仏をとなえながら、いのいちばんにお島が灯籠を流すと、そのあとにつづいて、宇兵衛、お妻、茂左衛門、の順で、灯籠がつぎからつぎへと流されたが、いや、その美しいことは筆にもことばにもつくされない。 「なるほど、こらきれいや。親分、これならきただけのかいはおましたなあ」  と、口のわるい豆六もおもわず感嘆の声をあげたが、そのときだ、山宇の舟ではお島がふいに、 「あれ、姉さん、姉さんがむこうに……」  と、けたたましい叫びをあげたから、おどろいたのは宇兵衛をはじめお妻と茂左衛門。 「これ、お島、なにをいう。滅多なことをいうものじゃない」 「それでも父さん、あれあれ、姉さんがむこうの舟に……」  と、指さされたほうに目をやった三人は、おもわずぎょっと息をのんだ。  なるほど、五、六間むこうの水のうえに、一隻の小舟が浮いていて、その小舟のなかから、こう、よろよろと立ち上がったのは、まぎれもなく、この春死んだ姉娘のお通、しかも、がっくりくずれた髪から、まえはだけの着物から、ぐっしょりと水にぬれて、額からたらたらと血の垂れている気味悪さ。 「わっ、ゆ、幽霊だ!」  茂左衛門はがらにもなく腰をぬかして、船底にしがみついたが、そのとたん、お通の幽霊は片手をあげておいでおいでをする。 「お、お通!」 「姉さん」  宇兵衛とお島が叫んだとき……たいへんなことが起こったのである。  屋形船ががくりと左右に振れたかとおもうと、ふいに、どっと舟底から水が噴き出してきたからたまらない。 「あれ、父さん」 「おお、お島」  親子がひしと抱きあったはずみに、舟はまたもや大きく揺れて、もんどり打ってひっくりかえった。  おりから水のうえでは灯籠が、鬼火のようにいっせいにもえあがって、奇怪なお通の幽霊をのせた舟は、いずくともなく消えていた。  灯籠の中から銀かんざし   ——宇兵衛は助けられたけれど  なにしろ、その夜の騒ぎときたらたいへんだった。  さいわいお通の幽霊のことはだれも気がつかなかったけれど、かんじんの山宇の舟が沈んだのだから大騒ぎ。  これじゃ施米どころの騒ぎではない。  あれよあれよと、水のうえでは、見物の舟が右往左往する。これではかえって助かるものも助からぬはめになろうというもの。  佐七は気をいらって、 「どいた、どいた。みんなそこをどかねえか」  と、みずから櫓《ろ》をあやつって、山宇の屋形船へ近づいていく。  と、そのときだ。  艫《とも》のほうに座っていた豆六は、おりからそこへ流れよった都鳥の灯籠を、なにげなく水のうえからすくいあげたが、みるとなかに妙なものがはいっている。  かんざしなのだ。  それもふつうのかんざしではない。ひさご型をしたかんざしなのだが、その脚のところに彫ってあるのが、おつうという三文字なので、豆六はぎょっとして、 「兄い——」  と声をかけたが、辰五郎はそんなことばも耳にはいらない。片膚脱いで突っ立ったまま、 「どいた、どいた。お玉が池の親分のお通りだ。じゃまになるから、そこをどいたどいた」  と、声をからして叫んでいる。  豆六はやむなくかんざしをふところのなかにねじこんだが、そのとき、水のなかからポッカリ浮かんだふたつの顔。 「やあ、親分、土左衛門《どざえもん》がここへ浮いてきましたがな。あれあれ、まだ土左衛門になってえへんのんかいな。ほら、わての手につかまりや」 「ありがとうございます。それでは、だんなからさきにお願いいたします」  という声に、おやと首をかしげた辰が、ちょうちんを水にかざして、 「おお、そういうおまえは幸助さんじゃねえか。おまえがどうしてこんなところに……」 「辰五郎さん、わけはいずれあとで話します。それより、だんなをお願い申し上げます」  と、そういう声にふとみれば、幸助が片手に抱いているのは、まぎれもなく山川屋宇兵衛。だいぶ水を飲んだらしい。ぐったりとして、半死半生のありさまだった。 「おお、これは山川屋のだんなだ。辰も豆六も、なにをぐずぐずしているんだ。はやくだんなを舟のうえへあげねえか」 「おっと、合点!」  ふたりが手をかして、山宇のからだを抱きあげると、 「それでは親分さん、だんなをお願い申します」  と、それだけいって幸助は、ふたたび水の中へ潜りこんでしまったから、驚いたのは佐七をはじめ辰と豆六。 「これ、幸助さん、どこへいく。おまえもここへあがらねえのか」  声をかぎりに叫んでみたが、幸助の姿はどこにもみえぬ。暗い水のうえには、いきかう舟のあいまあいまにあの都鳥の灯籠が明滅して、山宇の屋形船は、すでに水底ふかく沈んでいた。  こうして、山川屋宇兵衛のみは幸助に救われ、佐七の舟に助けあげられたが、あとの三人、お妻親子に番頭の茂左衛門はどうなったのかわからない。  なにしろ、暗い水のうえのこととて、捜索もはかばかしくははこばない。  ところが、夜明けごろになって、お妻と番頭茂左衛門だけはゆくえがわかった。  新大橋のあたりに土左衛門になって浮かんでいるのが発見されたのである。しかも、これがふつうの死にざまではないのだからおかしい。  ふたりとも土手っ腹をふかくえぐられているのだ。どうやら、水中で何者にともなく刺されたらしい。  なるほど、これじゃいかに泳ぎのたっしゃなお妻でも、助からなかったのは理の当然。  それにしても、お島はどうしたのだろう。  山宇が金にあかして、川上といわず、川下といわず、ひっしに捜索したかいもなく、その翌日になっても、またつぎの日になっても、ついに死骸《しがい》があがらなかったから、さあ、世間の口はうるさい。  これはやっぱりお通のうらみだ。  姉娘お通が、三人を水の中に引っ張りこんだのだと、いやもうやかましいこと。しかし、それにしても、幽霊が刃物をつかって土手っ腹をえぐるなんて、ちと受けとれぬ話だった。  行方不明の手代幸助   ——お通とお島とそろいのかんざし 「だんな、それはどこの家にも、かくしごとと申すものはございます。しかし、それを打ち明けていただかなくちゃ、いくらあっしだって、手の出しようがないじゃアございませんか。春のお通さんの場合といい、また、こんどの珍事といい、ただの災難とは受け取れかねます。ましてや、おかみさんや番頭さんがああして非業の最期をとげたからにゃ、下手人をあげなければなりません。それについちゃ、どうしても、だんなの知恵をお借りしなきゃならねえんです。どうでしょう。だれかおうちに、ふかいうらみを抱いている者があるかないか、そこのところを打ち明けていただくわけにゃアまいりますめえか」  お妻と茂左衛門の葬式をだした翌日、山川屋へ訪ねてきた人形佐七は、さっきから口を酸っぱくしてあるじの宇兵衛をくどいている。 「親分、おまえさんのおことばはよくわかります。しかし、こればかりはなんの心当たりもございません。なにもかも災難でございます。はい。災難と申すよりほかに申し上げようはございません」  このあいだの騒ぎからまだ回復しきらぬあるじの宇兵衛は、にわかに老いの目立ってきたほおに、さびしい微笑をうかべて、頑強《がんきょう》に佐七のことばを否定する。 「それじゃおまえさんは、おかみさんや番頭さんが土手っ腹をえぐられているのも、やっぱりときの災難だとおっしゃるんですかえ」  宇兵衛はしばらくだまっていたが、やがて顔をあげると、 「親分、それはほんとでございますか。なにかのまちがいじゃございませんか。水底へ沈んだひょうしに、なにかでけがをしたのでは……」 「だんな、あっしらは盲じゃありませんぜ。おまえさんもあの死骸《しがい》はごらんになったはず、けがでできた傷か、えぐられた傷口か、それがわからぬはずはないと思うんですがねえ」 「さようでございますか。いや、恐ろしいことでございますが、わたしにははや、なんとも心当たりはございません」  宇兵衛はブルブルと身ぶるいしたが、それきりまたもや頑強《がんきょう》に口をつぐんでしまった。 「さようですか。それじゃもうひとつお尋ねいたしますが、だんなは幸助さんというのをご存じじゃありませんか」 「え、幸助? 幸助がどうかいたしましたか」  宇兵衛はこのときはじめて顔色をうごかした。 「だんな、おまえさんをあの晩救いあげたのは、その幸助さんという男ですよ」 「えッ、あの幸助が……このわたしを……親分、そ、それはほんとでございますか。わたしはまた、親分に救われたものだとばっかり……」 「なに、あっしは幸助さんに頼まれただけのこと。して、その幸助さんというのはどういうおひとですえ」 「はい、あれは家の手代でございました。この春、お通があんなことになりましたとき、あれもいっしょだったのでございますが、不行き届きというとがで、家内がひまを出したので。そうでございますか。その幸助が、わたしを助けてくれたのでございますか。しかし、幸助はいまどこにおりますので」 「それがあっしにもわかりません。おまえさんをあっしに頼むと、そのまままた水底に潜って、いまもってゆくえしれずでございます」  聞いて宇兵衛は落胆したようすだったが、そのときだ、いままで神妙にひかえていた豆六が、 「ああ、そうそう、だんなはん、あんた、これに見おぼえはおまへんか」  と、取り出したのは、このあいだ灯籠のなかから見つけた銀のかんざし。  佐七と辰はおやと目をまるくしたが、宇兵衛はとたんにあっと顔色をかえた。 「あ、こ、このかんざしは、お通のものにちがいございません。ことしの春、お島とそろいでこしらえてやりましたが、取りちがえるといけないというので、ほら、ここにおつうと彫ってございます。おまえさん、これをどこで手に入れなすったので」  と、宇兵衛はにわかにおろおろ声でひざをすすめる。  豆六のやつ、得意になって、このあいだのいきさつをまくし立てたが、それを聞いて佐七と辰が怒ったのおこらないの。 「こん畜生、そんなことをいままでなぜかくしていやアがったんだ」 「すんまへん。じつは、ケロリと忘れてましたんや。まあ、堪忍しておくれやす」  豆六のやつ、どこまで心臓が強いのかわからない。親分と兄貴分がかんかんになっておこっているのを、どこ吹く風とすましている。  宇兵衛はだまって聞いていたが、にわかにひざをすすめると、 「親分、それについては妙な話がございます」  と切り出したのは、このあいだ船のうえでみたお通の幽霊。 「それからすぐにあの騒ぎが起こったので、よく見さだめるひまもなく、またそんなバカな話があるべきはずはないと、いままで黙っておりましたが、ここにこうしてお通のかんざしがありますいじょう、あれはまだ生きているのでございます。はい、だれか悪者に押し込められているにちがいございません。そして、この灯籠のなかへ銀かんざしをいれて、生きているということを知らせてきたにちがいございません」  と、さすが剛毅《ごうき》の山川屋宇兵衛も、はや気も狂乱のありさまだ。 「だんな、だからおたずねしているんです。その悪者について、なにかお心当たりはございませんか」 「さあ、それが……」  と、宇兵衛はなにかいいたげだったが、そこでまたもや押し黙ってしまったのである。  へびの腹から銀のかんざし   ——こら縫いぐるみのへびや 「親分、わかりました。山川屋宇兵衛は、ひとからひどい恨みをうけているんです」  その翌朝、あわをくってお玉が池の家へとび込んできたのは辰に豆六。  宇兵衛はああしてひた隠しにかくしているが、なにか他人に恨みをうけるおぼえがあるにちがいないと、そこでけさ早くから佐七は、ふたりに命じて木場へ探りにやらせたのだ。 「おお、やっぱりそうかえ、そして、その恨みというのはどういうことだえ」 「それが、こうだす。兄い、まあ、あんたから話しなはれ」  と、そこで豆六と辰五郎がこもごも語ったところによると、こうなのだ。  いまからちょうど十年ほどまえ、木場には柏屋伝右衛門《かしわやでんえもん》という材木の大問屋があった。ところが、過ぐる大火のみぎり、この柏屋伝右衛門、木曽|檜《ひのき》の良材をあまたたくわえていながら、値上がりを待ってこれを出そうとしない。  奉行所からお尋ねのさいも、さようなもの、けっして手前の持ち物のうちにございませんと白《しら》をきった。  ここへ目をつけたのが、当時まだ手代だった宇兵衛。さっそく奉行所へ出頭して、木曽檜の一手引き受けをねがいでた。  そして、柏屋がかくしている檜材を、かたっぱしから取り出して、かってに売り出したのだ。  これには柏屋も驚いたが、なにしろまえに檜材など持ってはいないと町奉行のまえでいいきったのだから、どうすることもできない。  みすみす指をくわえたまま、全財産にも比すべき檜材を、宇兵衛に横領されてしまったのだ。 「そういうわけで、山宇がいまの身代をつくりあげたのは、つまり柏屋の財産を横取りしたもおなじことなんです。柏屋も柏屋だが、山宇も山宇、これじゃ後生のわるいのも当然でさ」 「ほほう、そんなことがあったのか。そして、その後その柏屋はどうしたんだえ」 「それがやな、あんまりくやしいもんやで、やめときゃええのに、奉行所へ訴えて出よったんだす。ところが、まえにキッパリ、檜なんて持ってえへんと言いきってあるもんやさかい、これがかえってやぶへびになりました。お上をたばかる不届き者ちゅうわけで、家財全部めしあげられ、伝右衛門は三宅島《みやけじま》へ遠島、いやはや、ちょっと欲張ったばかりに、えらいことになったもんや」 「ところが、親分、その伝右衛門が去年、お赦《しゃ》にあって、この江戸へかえっているんですぜ。じぶんの家の財産を横領した山宇が、日の出のいきおいで栄えているのをみると、伝右衛門にしちゃどんなにくやしいか知れたものじゃありません。だから、こいつ伝右衛門が……」 「なるほど。そして、その伝右衛門はいまどこにいるんだえ」 「ところが、それがわかりまへんねん。島からかえってきたじぶん、木場の知り合いの家へころげこんだそうだすが、人情紙よりうすいのたとえや、落ちぶれてしもうた伝右衛門に、ええ顔するやつはおりまへん。いたたまれなくなった伝右衛門、この春ごろからゆくえがわからんちゅう話や。なんでもな、ことし十五か十六になる男の子がひとりあるそうだっけど、それもどこにいよんのか、かいもく見当がつきまへんねん」  と、こんな話をしているところへ、表のほうから佐七の女房、お粂《くめ》のけたたましい声が聞こえてきた。 「いらないよ、いらないったらいらないよ。しじみなんて食いあきているんだから、またこんどにしておくれよ」 「おかみさん、そういわねえで買ってくれよ、おまえなんかの食いあきてるしじみとは、ちとしじみがちがうんだ、ほら、みねえ。ピチピチ生きてはねてるしじみだ。少しばかり買って食ってみろよ」 「バカバカしい。しじみがピチピチはねてたまるもんかね。ずうずうしい子どもだよ。あれ、いらないったらいらないんだよ」  ぎょうさんそうなお粂の声に、辰がのぞいてみると、お粂は十五、六のしじみ売りと押し問答のさいちゅうだ。 「あねさん、どうしたんですい、みっともねえ」 「あれ、辰つぁんかえ。なんとかしておくれな。この小僧、たもとをつかまえて放さないんだよ」 「小僧、いらねえといってるのがわからねえのか。あまりしつこくすると、そのままじゃおかねえぜ」 「おじさん、そんなこといわねえで買ってくれよう。ようよう、かぼちゃのおじさん」 「あれ、こん畜生、口のわるい野郎だ。おれをだれだと思う。お玉が池の佐七親分」 「え、そ、それじゃおまえが人形佐七親分か」 「いやさ、その佐七親分の身内の辰五郎だ」 「はっはっは、おおかたそんなことだろうと思った。人形佐七親分は、おまえみたいなまずい面《つら》をしているはずはねえ」  おそろしく口のわるい小僧だ。  まだ前髪のうすぎたないしじみ売りだが、くりくりとした目つき、敏捷《びんしょう》な身のこなし、なかなかどうして、辰五郎ごときの手にあう小僧じゃない。 「こん畜生、こうしてくれる」 「おっとどっこい、おまえなんかに手込めにされる千代松じゃねえよ」  振りあげた辰五郎のげんこのしたを、ひらりと抜けたしじみ売りの千代松、ざるをかついではや五、六間、向こうのほうへすっとんだが、そこでくるりと振りむくと、 「かぼちゃのおじさん、いいもんくれてやらあ。これを親分に見せてやんな」  と、懐中からなにか取り出すと、そいつを、ちゃりんとこちらへ投げて、そのまま雲をかすみとすっとんだ。いや、その逃げ足のはやいこと。 「畜生、生意気な小僧だ。あねさん、いまなにやら投げていきましたが……」  と、お粂と辰がわいわいいっているところへ、ひょっこり顔を出したのがうらなりの豆六で、 「なんや、なんや、あねさんも兄いもぎょうさんそうに、いったいどないしやはってん……」  といいながら、ひょいと辰の足もとを見ると、とたんに、 「わっ!」  と叫んでとびのくと、豆六め、真っ青になってふるえている。 「ど、ど、どうしたんだよう、豆さん、おまえさんこそ仰山な、いったいどうしたというんだよう」 「そやかて……そやかて……あねさん、兄い、わては……わては、そ、そ、それがだいの苦手やがな」 「だいの苦手……? 豆六、いってえなんのこったえ」 「兄い、あんたの足もとにとぐろ巻いてんのん、そ、そ、それ、へ、へ、へび……」 『七人|比丘尼《びくに》』の事件のときにも申し上げたが、この豆六ときたらだいのへびぎらい。へびに似たかっこうをしているようなものなら、なわの切れっぱしを見ただけでも、五体がすくんでしまうというやっかいな病気をもっていることを、お粂も辰もよく知っている。 「なんだ、へびだと……?」  辰が足もとへ目をおとすと、なるほど、土のうえにぬらりとのびているのは一匹のへび。 「あれえッ!」  と、お粂もとびのいた。  辰もいったんは驚いたが、足のつま先でへびのしっぽをつついてみたのち、なに思ったのかやにわに猿臂《えんび》をのばして、そのへびをつまみあげたから、お粂はびっくり、 「辰つぁん、およしよ、気味の悪い」 「なあに、あねさん、心配するこたアありませんよ。へびはへびでも、こいつア縫いぐるみのこしらえもんでさア。豆六、てめえも安心しろ」  いいながら、辰がひねくりまわしているのをみれば、なるほど、布でこさえたこしらえもののへび。しかし、それとわかっても、まだ豆六のふるえがとまらないのは、なんとも因果な性分である。 「しじみ売りの小僧、なんだってこんなものを……」  と、辰はなにげなく縫いぐるみのへびをいじっていたが、おやと顔をしかめると、 「あねさん、このへびのなかになにやらはいっておりますぜ」  と、縫いぐるみの胴をやぶって、なかから取りだしたのは一本の銀かんざし。しかも、これがこのあいだ都鳥灯籠のなかから見つけたのと、そっくりおなじひさごのかんざし。しかも、その脚には、おしまという三文字。  辰と豆六、これを見るなり、あっと叫んだ。どうやら、豆六もこれでシャッキリしたらしい。  手招きするからかさ小僧   ——てもものすごい化け物屋敷 「親分、親分、まあ待っておくんなさいよ。あの銀のかんざしをみるなりとび出したのはいいが、いったい、どこへ行くんです。いく先ぐらいいってもいいじゃありませんか」 「辰、豆六、おまえにゃあの縫いぐるみのなぞがとけねえのか。ありゃちゃんと、お島のいどころを知らせているんだ。いや、ひょっとすると、お通もほんとは生きていて、おなじところに押し込められているのかも知れねえ」 「へへえ。すると、お通も生きてますか」 「ふむ。どうもそうじゃねえかと思うんだ。このあいだ山宇のみた幽霊、そのいでたちをきいたときから、おれアどうもそういう姿に心当たりがあるような気がしてならなかった。島田ががっくりくずれてよ、全身水びたしになったわかい女、おめえ、それに心当たりはねえかえ」 「はてね。そりゃ川へはまって死んだ幽霊だから、水びたしになっているのはあたりまえですがね」 「だから、おめえたちは働きがねえというんだ。水びたしになった幽霊といやあ、ほら、芝居や草双紙にある番町|皿屋敷《さらやしき》のお菊の幽霊」 「へへえ、しかし、そのお菊の幽霊がどうかしましたかえ」 「これだけいってもまだわからねえのか。お菊の幽霊と、このこしらえ物のへび、そんなもののあるのは、いったいどこだえ」 「わかった」  と、手をうったのはうらなりの豆六だ。 「そら、親分、奥山でいま評判の、あの幽霊屋敷の見せ物やおまへんか」 「はっはっは、やっとわかったかえ。わかい女をかくしておくにゃ、幽霊屋敷とはおあつらえむきの場所じゃアねえか」  しじみ売りの千代松が投げていったあの縫いぐるみのへびから、これだけのことを判断した人形佐七が、それからすぐに家をとび出し、やってきたのは浅草は奥山で、ちかごろ評判のたかい幽霊屋敷。 「辰、豆六、三人ゾロゾロつながってはいっちゃまずい。おれがひとあしさきにはいるから、おまえたちはどこか近所でようすを見ていろ」 「おっと、がってん。しかし、親分、大丈夫ですかえ」 「なに、ひととおりなかを回ってくるだけのことさ。心配せずと待っていねえ」  ふたりを外にのこした佐七は、手ぬぐいでほおかぶりをすると、なにくわぬ顔して木戸からなかへはいっていく。  田舎へいくと、いまでも夏場など、よくこの幽霊屋敷という見せ物があるが、文化から文政へかけて、江戸の世界は怪談ばやりで、だから、この化け物の見せ物なども全盛をきわめたものだ。  おどろおどろの竹やぶが迷路をつくっていて、そのあいだに、ゾッとするような血まみれの生き人形が立っている。気の弱いものには、とてもおわりまで通り抜けられない。  時刻はちょうどはんぱだったので、佐七がはいったときは、まだ見物もろくにいなかった。  海坊主、舟幽霊、たぬきの化け物、卵塔婆、福原御殿の骸骨《がいこつ》踊り、浅尾のへび責め——と、おさだまりのこしらえだが、へび責めの場面につかわれている縫いぐるみのへびをみると、たしかにさっきしじみ売りの千代松が投げつけていったやつとおなじだった。 「ふむ、それではやっぱりこのあたりに……」  と、佐七はきっとあたりを見まわしたが、へび責めの浅尾はこしらえもの、お島らしい姿はそのへんには見えなかった。  失望した佐七が、奥へすすんでいくと、ふいに横からとび出したのは、一本足のからかさ小僧、ヒョコヒョコと片足でとびながら、佐七に向かっておいでおいでをしている。 「ふうむ、妙なやつがとび出してきやアがったな」  佐七はゆだんなくあたりに目を配りながら、そのあとからついていったが、まもなく、からかさ小僧の姿はどこかへきえてしまった。 「はてな。どこへ行きやアがったろう」  きょろきょろあたりを見まわした人形佐七は、そのとたん、思わずぎょっと息をのんだ。  佐七の目のまえにあるのは、番町皿屋敷の井戸端だ。  竹やぶをかぶったうすぐらい井戸のなかから、ふいに青白い陰火が燃えあがると、ふらふらとせりあがってきたのは腰元お菊の幽霊。  青白んだ顔、みだれた髪、額からたらたらと血の流れているお菊が、水びたしになって井戸の中からせりあがってくる気味悪さ。  佐七はもっとよくみようと、一歩井戸のほうへ足を踏みだしたが、そのとたん、 「危ない!」  と、だれやら叫ぶ声。  佐七はぎょっとうしろを振りかえったが、ときすでに遅し、足下にパックリ大きな穴があいて、佐七の姿は土の中へのみこまれてしまった。  怨讐《えんしゅう》晴れる幽霊屋敷   ——めでたいお通幸助にお島千代松 「兄い、親分はえらい遅いやおまへんか。あれからもう半刻《はんとき》もたってるのに、まだ出てきやはらへん。どないしやったんやろな」 「そうよなあ。あいてが化け物屋敷だ、なにかまちがいがなければよいが」  虫がしらすのか、辰と豆六、幽霊屋敷のすぐそばにある団子茶屋で茶をのみながら、なんとなく胸騒ぎを感じていた。 「こんなとこで、いつまで待ってもきりがおまへん。兄い、ひとつわてらも中へ入ってみよやおまへんか」 「そうよなあ、親分にしかられるかもしれねえが、じゃひとつ出かけようか」  と、ふたりが腰をあげたとき、ふいに豆六があっと叫んで、辰五郎のそでをひいた。 「兄い、あら、山川屋宇兵衛やないか」 「なに、山宇だと?」  ぎょっとした辰五郎がむこうを見ると、なるほど、いましも幽霊屋敷のまえへやってきたのは、まぎれもなく山川屋宇兵衛、ソワソワあたりを見まわしていたが、そのままズイと、幽霊屋敷のなかへ消えていった。  すると、ふしぎなことに、木戸番のおやじはにんまり無気味な微笑をもらすと、木戸をしめてしまって、張り出したのは本日休業という止め札だ。 「はてな、こいつはおかしい、豆、こりゃいよいよ尋常じゃねえぜ」 「親分を中へしめこんでしもて、いったい、どないするつもりやろ。兄い、構うことあらへん、どこからかひとつ忍びこんでみようやおまへんか」 「よかろう。豆六、こっちへこい」  幽霊屋敷の裏手へまわると、どうせ葭簀張《よしずば》りのチャチな小屋のこと、なかへしのびこむのはぞうさはなかった。うなずきあったふたりは、そのいっかくを切りやぶって、ソロソロなかへ忍びこむ。  ちょうどそのころ、山川屋宇兵衛もあたりのようすに気をくばりながら、ものすごい幽霊屋敷の迷路のなかを歩いていた。  山宇がここへやってきたのはほかでもない。けさほどだれか投げこんでいったのか一通の封じ文、ひらいてみると、娘の命をすくいたくば、奥山の幽霊屋敷へやってこい。ただし、このことひとにもらせば、娘のいのちは亡きものと思えという一種の恐喝《きょうかつ》だ。  山宇はちょっと思案の首をかしげたが、春以来の災難つづきに、世をはかなんでいたおりから、これがよし悪者の陥穽《かんせい》としても、いちど出かけてみなければ気がすまなかった。  やがて山宇がやってきたのは、浅尾のへび責めの場面、宇兵衛はその浅尾の顔をみると、 「おお、お島!」  と、おもわず叫んだ。  ふしぎ、ふしぎ、さっき佐七を見たときは、たしかに人形の浅尾だったのに、いまみると、それがいつのまにやら、あの可憐《かれん》なお島にかわっている。  しかも、そのへび責めのへびもこしらえもののなかに混じって、生きたやつが五、六匹、気味悪くかま首をもたげている。お島はぐったり気を失っていた。  宇兵衛はさっと顔色をかえ、 「お島、お島、父じゃ、父じゃ、気をたしかに持っておくれ」  と、あわててそばへ駆け寄ろうとするのを、うしろからしっかりと抱きとめたものがある。 「山宇、おめえに見せるのはこれだけじゃねえ。もうひとり見せてやりたいものがある」  声に驚いて振りかえると、うしろに立っているのは雲つくばかりの見越し入道。三つ目をギロギロ光らせて、ペロペロ舌を吐きながら、山宇をひったてるようにしてやってきたのは皿屋敷の井戸端だ。 「ほら、山宇、お菊の幽霊をみろ」  山宇はまたもや真っ青になった。  さるぐつわをはめられ、うしろでにしばりあげられたお菊の顔は、まぎれもなく娘のお通。 「おお、お通!」 「どうだ。山宇、おどろいたか」 「いったい、おまえは何者だ。なんの恨みがあって、こんなことをするのだ。後生だ、お願いだ、お通やお島を助けてくれ。あの娘たちになんの罪科《つみとが》があるというのだ」 「そうさ、娘たちに罪はない。恨みは山宇、おまえにあるのだ」  いいながら、すっぱり面をかなぐり捨てた見越し入道の顔をみて、 「あ、おまえは柏屋伝右衛門。それじゃ、いちどならず二度までも、舟に穴をあけて娘を連れていったのは、やっぱりおまえだったのか」 「ちがう。山宇、おれはそんな回りくどいことはしやアしない。なあ、山宇、よくきけよ。おまえは商売にかけちゃすばしこい男だが、家内のことにゃまるで盲だ。この春、船底に穴をあけて、姉娘を殺そうとしたのは、後妻のお妻と番頭茂左衛門の仕事だぜ」 「えっ」 「それ、みろ、驚いたろう。いや、そればかりじゃない。お盆の十六日に舟を沈めたのも、やっぱりあのふたりの仕業だ。こんどはおまえを水の中で殺してしまい、お妻と茂左衛門のふたりで、家をのっとろうという計略よ」 「ああ、そうだったのか。そのことは、おれもうすうす勘づいていた。舟が沈んだとき、お妻と茂左衛門のふたりが、やにわにおれを水の中へ引っ張りこもうとした」 「そうだろう。ところがどっこい、そこへ割りこんだのが手代の幸助だ。山宇、あの男はおまえにゃ惜しい忠義な手代だ。この春のできごと以来、お妻と茂左衛門に疑いをかけていた幸助は、あの晩も、もしものことがあってはと、ひそかに舟のちかくに張り込んでいたんだが、変事が起こると、すぐ水中へとびこんで、お妻と茂左衛門を殺したうえ、おまえを助けて人形佐七に万事をまかせたのだよ」 「ああ、そうだったのか。そうだったのか。しかし、伝右衛門どの、そのお通やお島が、どうしてここにいるのだえ」 「それかえ。それはな、おれは島からかえって以来、いつもいつも、おまえの一家の者のそばにつきまとうていた。この春の舟遊山のときにも、ひそかに舟のあとを追うていたが、そのうちにあの珍事だ。おれはすぐさまとびこんで、お通を助けてやったんだ」 「え、そ、それじゃ、おまえさまがあのお通を……」 「そうさ。憎い敵《かたき》の片割れでも、難儀なところをみれば、捨ててはおけぬおれの性分。ところが、お通は助かっても、家にかえるのをいやがった。むりもないな。まま母の奸計《かんけい》をうすうす勘づいていたお通は、敵ともしらずおれを頼りにして生きてきたのだ。ところが、盆の十六日に、おまえがお通の川施餓鬼をするという話をきき、ぜひよそながら、おまえや妹に会いたいという。そこで、おれが幽霊に仕立てて、こっそり会わせてやったのだが、そのときまたぞろあの騒ぎ。そこで、おれは水のなかからお島をたすけて、ここへ連れてきたのだ、わかったか。宇兵衛。おれアなにもおまえに恩を売るつもりはねえ。ただ、娘の命とひきかえに、おまえのいのちをもらいたいのだ」 「わかった。伝右衛門どの。おまえさまというひとがなかったら、お通もおれも、すんでのことに、姦夫姦婦《かんぷかんぷ》に殺されていたところだ。さあ、おれを殺しておくれ。いや、思うぞんぶん八つ裂きにしておくれ。しかし、お願いだ、ふたりの娘だけは助けて家にかえしてやってくれ」 「おお、いい覚悟だ」  見越し入道の伝右衛門が、さっとだんびらを振りかぶったとき、ふいにかたわらのやぶのうえから、さかさまにするするとおりてきた女の幽霊が、やにわにその利き腕をとらえたから、驚いたのは伝右衛門。 「あ、わりゃいってえなにやつだ」  と、幽霊の手を振りはらい、またもやさっと刀をふりあげると、そのとき、ひょこひょこと一本足でとんできたからかさ小僧が、いきなり伝右衛門の腕にとりすがると、 「ちゃん、よしねえ。よしてくんねえ。山宇のだんなもあやまっている。いいかげんに、うらみを忘れてあげてくんねえよ」  と、わっとばかりに泣き声をあげたが、それをきくとさすがの伝右衛門も、どうとうしろにしりもちついて、両手でひしと顔をおおうた。 「おお、でかした千代坊。柏屋《かしわや》のだんなも、ここらでうらみを西の海へさらりと流したほうが花も実もある。娘の恩人とあれば、山川屋のだんなもそのままじゃおきますめえよ」  そういう声をだれかと見れば、やぶのうえからするするとおりてきた女の幽霊、すっぽりお面をとれば、いうまでもなく人形佐七だ。  からかさ小僧はあのしじみ売りの千代松で、伝右衛門のひとつぶだねのせがれだった。  さっきから、ものかげに忍んで、この場のなりゆきいかにと、かたずをのんでうかがっていたきんちゃくの辰と豆六は、意外なこの結末に、おもわず顔を見合わせた。  佐七はいったん落とし穴へおちたものの、千代松のはたらきで助けられた。  その落とし穴のなかには、幽霊舟を追ってきた手代の幸助も閉じこめられていた。  幸助はお妻、茂左衛門を殺したが、それもお主を助けるためとあってなんのおとがめもなく、かえって奉行所から賞美のことばをいただいた。  その秋、山川屋宇兵衛の宅では、ふたつの縁組みがまとまった。  ひと組はお通幸助、もうひと組はお島千代松。ただし、あとのほうはもう一年繰りのべて、来年祝言するという話である。そして、千代松が一人前になったときには、山川屋の身代のはんぶんを譲るという評判だ。  宇兵衛と伝右衛門はともに頭をまるめて、いまでは兄弟のように、仲よく付き合っているという。     浄玻璃《じょうはり》の鏡  杵屋於莵久《きねやおとく》   ——師匠だけはよして下さい—— 「あ、もし、そこへおいでになるのは、お玉が池の親分さんじゃありませんか」  浅草の観音様、仁王門を出たところである。久米《くめ》の平内さんのまえあたりで、ふとそう声をかけられた人形佐七が、うしろをふりかえると、雑踏のなかに立っているのは、年のころ二十七、八、まゆをおとして白歯をそめて、いい女房ぶりだが、どこか所帯やつれのうかがえる女であった。 「おお、あっしはお玉が池の佐七だが、そういうおまえさんは?」  佐七がふしぎそうにまゆをひそめると、女ははかなげにわらって、 「あら、いやですわ、親分。ずいぶんねえ、お徳じゃありませんか。三味線堀《しゃみせんぼり》の杵屋於莵久《きねやおとく》ですよ」  いわれて佐七は小手をたたいた。 「ああ、そういえば三味線堀の師匠だ。あまりようすがかわっているから、すっかり見違えちまった。すまねえ、すまねえ。しかし、師匠、おまえいい女房ぶりになったねえ」 「あら、親分、からかっちゃいやですよ」  お徳ははずかしそうに身をくねらせたが、すぐ思い出したようにあたりを見回し、 「親分、辰つぁんや豆さんは」 「なあに、きょうはおれひとりよ。砂利場のほうに用事があって、そのついでといっちゃ悪いが、ひさしぶりにお参りしたのさ。ときに、師匠、なにか用事かえ」 「はい……」  と、お徳はことばをにごして、もじもじしている。  このお徳というのは、ついこのあいだまで、杵屋於莵久と名乗って、三味線堀で長唄《ながうた》の師匠をしていた女だが、ちかごろじぶんより年下の男をひっぱりこんで、すっかり夫婦気取りでおさまっているということを、佐七もひとのうわさにきいていた。 「師匠、おまえ、稼業《かぎょう》のほうもよしたんだってねえ。ずいぶん思いきったもんじゃねえか」 「ええ。なんしろ、うちのがやかましいもんですから」 「おや、師匠、会うとそうそうのろけは恐れいるぜ。あっはっは、よっぽど亭主がかわいいとみえる」 「あら、親分、そんなわけじゃ……」  お徳は生娘のようにほおをそめたが、すぐしずんだ顔色になって、 「親分、それについて、おまえさんにきいていただきたいことがございますの、ここでお目にかかれたのも、観音様のおひきあわせかもしれませんわ。後生ですから、ちょっとのあいだ、どこかへつきあってくださいませんか」  なにかしら思いこんだようなお徳の目を、佐七はじっと見かえしていたが、 「それアほかならぬおまえのことだから、つきあってもかまわねえが、あとでどっかから、槍《やり》が出やアしないかえ」 「あれ、まあ、ご冗談ばっかり……それじゃつきあってくださいますね。これでどうやら胸のつかえがおさまりそうですわ、親分、観音様はやっぱりご利益《りゃく》がありますわねえ」  お徳がさびしげなほおににっこりえくぼを刻むと、ふりかえって、観音様に手をあわせたが、さて、それからまもなくふたりがやってきたのは、そのころ並木にあった茶飯屋の奥座敷、なにしろ、残暑のきびしいきょうこのごろ、おちょうしにきゅうりの酢もみかなんかのお通しものがでてきてどうやら座がおちつくと、 「ときに、師匠、話というのは?」  と、すぐに佐七がきりだした。 「はい、それが……」  と、お徳はもじもじしていたが、 「親分さん、その師匠だけはよしてください。あたしはすっかり堅気になっているんですから」 「ほい、しまった。すまねえ、すまねえ。それじゃ、お徳さん、話というのをきこうじゃないか」 「はい……」  お徳はそれでももじもじしていたが、やがて思いきったように、なにやらふところから取りだすと、 「親分、それではまずこれからご覧くださいまし」  と、佐七のまえに差し出したのは、一通の手紙である。佐七がひらいてみると、それはだいたいつぎのような意味の文章であった。 [#ここから2字下げ] 東西《とうざい》、東ウ西。町内でしらぬは亭主ばかりとはよういうた。三味線堀の杵屋《きねや》の於莵久《おとく》、長年世話をうけた御徒士町《おかちまち》の絵草紙屋、瓢屋《ひさごや》十兵衛と手をきって、かつぎ呉服の新之助《しんのすけ》、おのれよりも三つも年下の若者と、まゆ毛落として白歯をそめて、あっぱれ貞女ぶりはよかったが、おっとどっこい、だまされまいぞ。そこは水性《みずしょう》の杵屋の於莵久、いつのまにやら焼けぼっくいに火がついて、ちかごろちょくちょく十兵衛と忍びおうているともしらぬが仏の新之助、やれ、かわいそうなのはこの子でござアい。男の面にぬられたどろをなんとしよう。  浄玻璃《じょうはり》の鏡。 [#ここで字下げ終わり] 「師匠、こりゃア……ここに書いてあることはほんとかえ」  お徳は面目なげにうなずくと、 「そういう手紙が、うちのひとのところへ来たものですから、あのひとかっとして飛びだして、きょうで三日目、うちへ帰ってこないんです」  お徳はわっと泣きだした。  浄玻璃《じょうはり》の手紙   ——下谷かいわいは大騒ぎでございます  佐七はあきれたようにお徳を見守りながら、 「おいおい、お徳さん、冗談じゃねえぜ。それア、ご亭主がとび出すのもむりはねえ。みんなおまえが悪いんだ」 「はい、それはわかっています」 「わかっている? それじゃ、このおいらに、どうしろというんだ。まさか、間男の後始末をしてくれろというのじゃあるめえな」  お徳は面目なげに涙をふきながら、 「親分さん、それゃあたしが悪いことは悪いんです。しかし、たとえにもいうとおり、どろぼうにも三分の理。親分さん、聞いてください、これにはいろいろわけのあること……」  お徳の語るところによると、こうである。  そもそも、お徳が新之助とできたのは、まだ十兵衛の世話をうけているじぶんのことだった。新之助はお徳より三つ年下の二十五。  稼業はしがないかつぎ呉服だが、正直な人柄だから、問屋のだんな衆にもおとくいにも、新さん、新さんとかわいがられて、お徳のもとへ出入りするうち、いつかふたりはだんなの目をしのぶ仲となったのである。 「ところが、そのとき、だんなのもとへとどいた手紙の差し出し人というのが浄玻璃《じょうはり》の鏡、わたしと新さんの仲を、すっぱ抜いているのでございます」  佐七ははじめて顔色をうごかした。 「それじゃ浄玻璃の鏡にやられたのは、はじめてじゃなかったのか」 「はい。『浄玻璃の鏡』については、いろいろ話がございますが、それについては、いずれあとでお話しするとして、さて、瓢屋《ひさごや》のだんなでございます。わたしの口からこんなことをもうすのも変ですが、たいへんもののわかっただんなで、あらためて、わたしと新さんを呼びよせると、ふたりがほんとに好き合って、夫婦になる気があるなら、そうしてやると、たいまいの手切れ金をくだすったのでございます」 「ふうん、さすがは大店《おおだな》のだんなだ。しかし、それがどうして焼けぼっくいに火がついたのだ」 「さあ、それでございます」  お徳は面目なげにうなだれて、 「だんなの手がきれたので、わたしども晴れて夫婦になりましたが、うちのがきらうものですから、長唄の師匠もよしました。そして、新さんのかせぎひとつでくらしを立てていましたが、この春あのひとが大患いをいたしまして……」  にんじんという高価な薬を飲まさねばならぬと医者にいわれて、思案にあまったお徳のすがりついたのが、むかしのだんな十兵衛である。  十兵衛は金を貸すかわりに、お徳のからだを要求するようなケチな男ではなかったが、あいにくそのとき酔うていた。  ついにお徳に手を出したのである。  お徳も亭主かわいさに、とうとう目をつむって往生した。こうして、いちどまちがうともういけない。十兵衛も、憎くてわかれた女でないから、いちど味をしめると、その後もちょくちょく呼び出しをかける。お徳も惰性でひきずられていく。  こうしてふたりは、新之助が本服してからもちょくちょくしのびおうているうちに、阿漕《あこぎ》の浦にひく網のたとえ、いつしか浄玻璃の鏡の目にうつって、こんどの手紙となり、新之助の家出という破目になったのであった。 「もともと、わたしが悪いのですから、どんなにされてもかまいませんが、気がかりなのはうちのひと。なおったといっても、まだほんとうではございません。どこにどうしているかと思うと、わたしは気になって、気になって……」  それはこういう、無知な女にありがちなあやまちだった。佐七はあわれなような、おかしいような気持ちで、うなだれたお徳の横顔を見まもっていたが、やがてひざをすすめると、 「ときに、お徳さん、この浄玻璃の鏡だがねえ、これがだれだか、心当たりはないかえ」 「さあ、それでございます。御徒士町《おかちまち》から長者町、三味線堀へかけて、『浄玻璃の鏡』の手紙になやまされぬものはないくらいでございますが、いまもってそれがだれだかわかりません」 「えっ、ちょ、ちょっと待って。お徳さん、それはどういうわけだえ」  佐七がひざをすすめると、お徳はかえってあきれがおに、 「まあ、それじゃ、親分はあの騒ぎをご存じないのでございますか」 「あの騒ぎとは?」 「去年の秋、長者町の生薬《きぐすり》屋、井筒屋のおかみさんが首をくくって死んだのも、浄玻璃の鏡のせいだそうでございます。若い手代と不義をはたらいているという手紙が、だんなのもとへ舞いこんだので、詮議《せんぎ》をしているうちに、おかみさんがくやしがって、首をくくったのでございます。三味線堀の裏店《うらだな》の大工の留さんが、手鉈《ちょうな》でおかみさんをたたき殺そうとしてけがをさせたのも、やっぱり浄玻璃の手紙のせい、おかみさんが近所のものと間男しているという手紙がきたからでございます。そのほか、年ごろの娘に縁談がきまりかけると、きっとあいての男のもとへ、娘の難癖をつけた手紙が舞いこむのでございます。やれ、あの娘には男があるの、虫がついているの、夜中に首がのびて油をなめるの、労咳《ろうがい》の、寝小便をたれるのと……そのために話がこわれた娘さんが、どのくらいあるかしれません。げんに、瓢屋《ひさごや》の若だんなの縁談がゆき悩みになっているのも、やはり『浄玻璃の鏡』のせいとやら……」  はじめてきく意外な話に、佐七はひどくおどろいた。  お雪と月光尼   ——お雪は不忍池《しのばずのいけ》に身を投げて  世のなかになにが罪だといって、匿名でひとのあらさがしをするほど罪なことはない。真実にしろ、こしらえごとにしろ、あいてがわかっていれば、事の実否をただすよすがもあるが、匿名にかくれて難癖をつけられてはたまらない。 「そんなことがあったのか。おらアちっともしらなかったが、ところで、瓢屋の縁談に水をさされたというのは、どういうことだえ」 「はい、それはかようでございます」  瓢屋のむすこの十次郎というのは、ことし二十一、色白の美男で、太閤記《たいこうき》十段目にでてくる武智《たけち》十次郎にそっくりだと、近所の娘たちから騒がれていたが、その十次郎にこのたび縁談がもちあがった。  あいては長者町の地紙問屋、扇屋の娘で名はお雪。地紙問屋と絵草紙屋とでは、まんざら縁がないこともない。似あいの縁組みだというところから、トントン拍子に話がすすんでいたが、するとまたもや、『浄玻璃の鏡』の手紙が十次郎のもとに舞いこんだのである。 「してして、こんどはどういうふうに、お雪に難癖をつけているのだえ」 「はい、それがまことにいまわしいことで……」  そのころ長者町に、寅《とら》の毘沙門《びしゃもん》という毘沙門さまのお堂があったが、先年、堂主がなくなったあとへ、どこからきたのか、月光という尼が住みついていた。  月光、としは二十七、八、頭こそそりこぼっているものの、ふるいつきたいほどの美人である。  そのうえに、行儀作法、口のききかた、まことにしとやかに行きとどいているから、いずれは由緒《ゆいしょ》ある家柄のものであろうと取りざたされていたが、この月光尼、字をよく書く。行成《こうぜい》流の仮名文字の流麗にして、気品のある、じつにほれぼれするぐらいの名筆だから、いつのころよりか近所の娘があつまって、お習字のけいこをはじめた。  扇屋の娘のお雪もそのひとりである。 「ところが、『浄玻璃の鏡』のもうしますのには、この月光尼とお雪さんとが、ただの仲ではない。ふかく契りあった仲だというのでございます」  つまり、いまの言葉でいえば、レスビアン、同性愛というのであろう。ふかくいいかわしたお雪と月光、起請《きしょう》のようなものを取りかわし、けっして男に身をまかせぬ。もしこの誓いをやぶって、男に身をまかせるようなことがあったら、あいてにどのような讐《あだ》をされても苦情はない。だから、いまお雪を妻としたならば、月光尼からどのような仕返しをされるかもしれぬぞよと、『浄玻璃の鏡』はそんなふうに脅してきたのだ。  十次郎、これを読むと青くなってふるえあがった。  お雪のあいてが男なら、どうせやぶれる縁談にしろ、十次郎もそれほど恐れはしなかったろう。ところが、お雪のあいてが女、しかも尼ときては気味が悪い。気のよわい十次郎がおじけをふるって、しりごみしたのも無理はない。 「十次郎さんはおとなしいひとですから、父ごのおっしゃることならと、この縁談にも同意していらっしゃいましたが、お雪さんでなければ……というほどのご執心でもなかったとみえて、そんなことからぐらつきました。ところが、お雪さんのほうでは、ないない十次郎さんを慕っていられたとみえて、縁談がゆきなやんでまいりますと、たいそう悲しがられて不忍池《しのばずのいけ》へ身を投げて……」 「えっ、死んだのか」 「いえ、さいわい通りがかりのひとがあって、助けられましたが、なんとしても罪なのは『浄玻璃の鏡』。これで迷惑しているひとが、どれほどあるかわかりません」  佐七はしばらくかんがえていたが、 「ところで、お徳さん、おまえこのおれにどうしてくれろというのだえ。新之助のゆくえをさがしてくれろとでもいうのかい」 「はい、それもございますが、それよりも『浄玻璃』とはなにものか、そいつを探し出して、なんとかしていただきたいのでございます」 「え、それはどういうわけで……」 「諸人迷惑の『浄玻璃の鏡』、こののちともに、どのようなことになるかしれません。それを思えば、わたしのことなどどうでもようございます。親分さん、そいつをつかまえ、きっとおもいお仕置きにしていただきとうございます」  お徳はおもいいった顔色だった。  殺された月光   ——瓢屋《ひさごや》十兵衛も殺されかけた 「親分、すみません。その話なら、あっしも二、三度、耳にしたことがありますが、まさかそれほどおおげさにやってるとは知りませんでした」 「いまの親分の話をきくと、ほかにもおおぜい『浄玻璃の鏡』にやられたやつがあるかもしれまへんな」 「それよ。お徳の耳にはいっただけでもそれだけあるんだから、ほかに外聞をはばかって泣き寝入りをしているやつが、どれだけあるかわからねえ。なあ、辰、豆六、こういうことは、ふつうの盗みや人殺しより、かえって罪のふかいものだ。いっときもはやく浄玻璃の正体をつきとめ、二度とこういうことの起こらねえようにしなければならねえ」  お徳にわかれてかえった佐七は、辰と豆六にいいふくめ、ひそかにこの一件に手をいれたが、なにがさて、雲をつかむような探しもの、あいては長者町から御徒士町《おかちまち》、三味線堀かいわいへかけての消息に通じているものと想像できるが、それ以上のことはなにもわからない。 『浄玻璃の鏡』の手紙も二、三手にいれたが、どれもこれも金くぎ流の悪筆で、教養ある人間のしわざだとは思えない。  こうして、さすがの佐七も、二、三日、手をこまぬいてこの一件を見送っていたが、するとここに一大事が出来《しゅったい》したのである。 「親分、たいへんだ、たいへんだ、月光尼が殺されました」 「そればっかりやおまへん、瓢屋十兵衛が殺されかけました」  ある朝、糸のきれた奴《やっこ》凧のようにおもてからとびこんできた辰と豆六の注進に、佐七はあっとおどろいた。 「なに、月光尼がころされて、瓢屋十兵衛が殺されかけたと? 辰、豆六、そりゃほんとうか」 「ほんとうかどころじゃございません。下谷かいわいこの一件で、けさから大騒ぎです。親分、はやく来てください」 「よし、お粂、支度だ」  辰と豆六にせき立てられた人形佐七が、取るものもとりあえずやってきたのが長者町、寅《とら》の毘沙門《びしゃもん》さまである。  この毘沙門さまというのは、十畳敷きほどのせまいお堂で、板の間の正面にはいちだんたかい壇があり、それに大小さまざまな醜怪な容貌《ようぼう》をした仏像がまつってある。  このお堂のとなりに、四畳半ひとまの堂主の住まいがついているが、月光尼はそこで、細ひもで首をくびられて死んでいるのであった。 「なるほど、これが月光か。尼にしておくのはおしい器量だ」  しかし、そのうつくしい顔も、いまは恐怖と苦痛のためにゆがんで、みるも無惨な形相をしめしている。  月光はこの毘沙門堂にただひとり住んでいたのだが、なにしろ評判の器量だから、いつかこういうことが起こらねばよいがと、ないない心をいためていたところ、はたして、こんな恐ろしいことになって……と、佐七を案内した町役人はため息ついた。 「ねえ、だんな、これア意趣でしょうか。物取りでしょうか。それとも、月光の器量に変な気を起こしたやつが手込めにしようとしたが、いうことをきかねえので殺したのでしょうか」 「さあ、わたしどもにはよくわかりませんが、いま親分さんのおっしゃったいちばん最後のやつではありますまいか。月光さんは、まことに品行のよい尼さんでしたから、男出入りがあるとはおもえず、またひとに恨みをうけるようなひとではございません。それに、このとおり、金目のものとてなにひとつありませんから、物取りとはおもえません……それに、ひとのうわさによると、このごろ、毎晩のようにわかい男がお堂のほとりをうろついていたといいますが、ひょっとすると、そいつが……」 「しかし、だんな、下手人は月光をころしたあとで、あたりをひっかきまわしていっておりますぜ。いったいなにを探していたんだろう」  佐七のいうとおり、部屋のなかはおそろしくひっかきまわしてある。 「さあ、わたしもそれを妙に思っているんですが、月光さんが大事なものを持っていたとはおもえません」  町役人は顔をしかめていた。  佐七はそのあいだに、部屋のなかをさがしていたが、ふと目についたのは、江戸の切り絵図である。それは長者町から御徒士町、三味線堀へかけての明細図だが、ところどころ朱で点がいれてある。佐七はそれをみると、キラリと目をひからせた。 「月光さんは托鉢《たくはつ》に出るから、そういう地図が入用だったのでございますねえ」 「ええ、そう、そうかもしれません。だんな、これはあっしがおあずかりしておきましょう」  地図をふところにした人形佐七、お堂を出ると、こんどはその周囲をしらべてみたが、すると、月光の住まいの水口のあたりに、草履のあとがついている。  ゆうべは宵《よい》に夕立があったから、土が湿っているのだが、そこをくっきり草履の跡が五つ六つ。それはあきらかに、なにものかがそこにたたずんでいたことを示すのである。 「辰、豆六。ここにだれかが立っていたことはわかるが、どうしてこんなところに立っていたかわかるかえ」 「さあてね。忍びこむまえに、なかのようすをうかがっていたんじゃありませんか」 「そうかもしれねえ。しかし、おれの考えじゃ、だれかがここで、なかの話を立ちぎきしていたんじゃねえかと思うんだ。おや、こんなところになにか書いてあるぜ」  水口のそばのすぎ板のうえに、くぎでひっかいたような文字が無数に書いてある。それはいずれも『おとく』の三文字。おとく、おとくと、無数に書かれた文字を見て、佐七の口もとには、にわかに意味ふかい微笑がひろがってきた。  切られた十兵衛   ——人殺しと叫んでくれた男 「さあ、それが……立花様のお屋敷のかどまできたとき、だしぬけにうしろから突いてまいりまして……なにしろ、こちらはゆうべの雨で、傘《かさ》をさして高足駄《たかあしだ》、あっとおもうはずみに足駄の歯を折り、ひざをついてしまいましたので、とうとう、あいてのすがたを見るひまはございませんでした」  瓢屋十兵衛さいわいにして薄手だったが、それでもやはり驚きのためか、あおい顔をして寝床のうえにふせっていた。 「なるほど。それで、そのときうしろから、人殺しと叫んだものがあるんですね」 「はい、その声におどろいて、くせ者が逃げてしまったのですから、わたしにとっては命の恩人。ところが、このひともくせ者が逃げてしまうと、どこかへいってしまいましたので……」  十兵衛の話はいささか妙であった。十兵衛はゆうべ用足しにいってのかえるさ、立花様のお屋敷のまえで、ふいにくせ者におそわれたのだが、そのときうしろから、人殺しだ、人殺しだと騒ぎたてた者があるという。その声におどろいて、くせ者はひとつき突いたきりで逃げてしまったのだが、ふしぎなことには、人殺し、人殺しと騒いでくれた人物まで、そのままどこかへ立ち去ったというのである。 「それで、だんなはそのひとに心あたりはありませんか」  佐七がきくと、十兵衛は顔をしかめて、 「それがいっこう……若い男のようでしたが……心当たりがあれば命の恩人、わたしもぜひともお礼をもうしたいのだが……」 「ところで、突いてきたのは刀でしたか、匕首《あいくち》でしたか」 「匕首だったように思います」 「いったい、だんなはゆうべ、どこへお出かけだったのでございます」  十兵衛はそれにたいしてこたえなかったが、佐七はじっとその横顔をみながら、 「だんな、ほんとうのことをいってください。だんなはもしや、寅の毘沙門、月光尼にあいにいったのではございませんか」  十兵衛はぎょっとしたように、佐七の顔を見なおしたが、佐七はにんまりわらって、 「だんな、『浄玻璃の鏡』のことは、あっしも知っております。だれにきいたか、それはいえませんが、扇屋のお雪さんはそのために身投げまでしようとした。そこで、だんなはふびんに思って、月光さんとの仲のこと、ほんとうかどうか、ききにいかれたのではございませんか」 「親分、恐れいりました。親分がそこまでお気づきなら、いまさらかくしても仕方のないこと、おっしゃるとおりでございます」 「そして、月光さんはだんなの問いにたいして、どのように答えましたか」 「さあ、それが……」  と、十兵衛はちょっと口ごもったが、 「むろん、そんなことは根も葉もないぬれぎぬとやら……」 「とすると、だんなはお雪さんを、若だんなのお嫁さんになさるおつもりでございますか」  そういわれると、十兵衛ははっとしたように顔色をうごかしたが、すぐうなだれると、 「わたしはそのつもりでおりますが、十次郎がなんと申しますやら、ぬれぎぬは晴れても、いったんケチのついた縁談、どうしてもすらすらいかぬものでございます」  十兵衛はいかにも苦しげな顔色だった。佐七は探るようにその顔を見詰めていたが、やがて語気をかえると、 「ところで、月光を殺したやつですがねえ、あっしゃ、ひょっとすると、それこそ『浄玻璃の鏡』じゃねえかと思うんです。月光は浄玻璃の正体をしっていた。それで、くびり殺されたのじゃありますまいか」  十兵衛はそれをきくとのけぞるばかり驚いたが、そのままなにもいおうとしなかった。  不忍池《しのばずのいけ》の夜あらし   ——新之助はわっと叫んでのけぞった  その晩のことである。どういう胸算用であったのか、佐七が辰と豆六をひきつれて、張っていたのは三味線堀のお徳の住まい。  群がりよる蚊を追いながら待つこと一刻《いっとき》(二時間)。四つごろ(十時)そっとお徳の家から出てきたのは二十五、六の若者である。そわそわとあたりの気配を見まわしながら、どこかへ出かけていくようすに、辰と豆六はおどろいた。 「親分、あれア新之助というお徳の亭主にちがいありませんぜ」 「そや、そや、お徳のやつ、そんなら親分にうそをつきよったんかいな」 「いいから、もうしばらくようすを見ていろ」  三人がかたずをのんで見ていると、新之助の出てきたあとから、またひとり出てきた。お徳である。お徳は寝床へはいっていたにちがいない。いそいで帯をしめなおすと、見えがくれに新之助のあとを追っていく。 「おおかたこんなことだろうと思っていた。新之助はゆうべかけさのうちに、お徳のところへかえってきたんだ。そして、一日お徳にかくまわれていたが、いま、お徳の寝息をうかがってぬけ出したのよ。お徳もそれに気がついたから、こっそりあとをつけているんだ。どれ、おいらもひとつつけてみようじゃねえか」  夕立まがいの雨が、またバラバラと軒をうちはじめた。こうなると辰はもういけない。なんの因果かきんちゃくの辰、だいの雷ぎらいである。 「お、親分……」  と、立ちすくむそばから豆六が、 「大丈夫や、兄い、今夜のは雨ばっかりや。雷さんは鳴らはらしまへん」 「ま、豆六、そ、それゃほんとうか。ほんとうに雷様はお下がりじゃアねえか」 「大丈夫、大丈夫、わてが保証します。今夜の雨はつめたいさかい、雷さんはきやはらしまへん」 「辰、おまえいやなら来なくともいい。おれと豆六で手が足りる」 「親分、そ、そんな薄情な。桑原桑原、南無《なむ》雷様、今夜のところは堪忍してくだせえよ」  いや、佐七もやっかいな子分をもったもんだが、こればっかりは、辰の泣きどころだからしかたがない。  そういううちにも、雨はいよいよ激しくなってきたが、豆六の保証があたったのか、どうやら雷はないらしい。そうでなくとも、夜も四つ(十時)をすぎれば、表通りも大戸をおろしてあたりはまっくら。その暗やみのなか、ますます激しくなってくる雨にぬれそぼれながら、新之助がやってきたのは不忍池のかたほとり。お徳もあとをつけている。  とみると、いく手にだれやら人待ちがおにたたずんでいる。新之助はそれをみると、なにやら声をかけたようだが、雨の音に消されて、なにをいったのかわからなかった。あいてはしかしその声がわかったのか、するすると新之助のほうへ寄ってくる。  お徳ははっとしたようすで、つと物陰へ身をしのばせる。すこしはなれたところでは、佐七と辰と豆六が、これまた物陰に身をしのばせて、むこうのようすをうかがっている。  夕立はいよいよほんものになってきて、不忍池は白い雨につつまれて、池いちめんのはすの葉が、ザワザワと音をたててゆれているが、さいわい雷はないようだ。  新之助ともうひとつの影は、柳の木陰に雨をさけながら、なにやら押し問答をしていたが、とつぜん、 「わっ、ひ、ひとごろしイ……」  と絶叫したのは新之助。二、三歩よろよろよろめくと、どすんとしりもちついたから、おどろいたのは物陰からようすを見ていた連中だ。 「ちきしょう!」  お徳が雨のなかへとび出すあとから、 「御用だ!」 「神妙にしくされや!」  辰と豆六がとび出したから、こんどはくせ者のほうがおどろいた。  しまったとばかりきびすをかえすと、土砂降りの雨のなかを逃げだしたが、 「御用や! 御用や!」 「神妙にしろ!」  辰と豆六におっかけられて、もうこれまでと思ったのか、いきなりざんぶと池のなかへとびこんだ。 「それ、辰」 「おっとがってん。こっちのほうはあっしにまかせておくんなせえ」 「よし!」  くせ者のほうは辰と豆六にまかせておいて、新之助のほうにかけつけると、お徳にだきおこされた新之助は、ズブぬれになってふるえている。 「おい、お徳さん、新之助の傷はどうだ」 「ああ、親分さん、よいところへ……さいわい傷は浅いようです。これ、おまえさん、しっかりしておくれ。いったい、あいては何者だえ」  なにしろ、年下のかわいい亭主、お徳はおろおろ涙声だが、新之助はがっくり首をたれたまま語らない。  そこへ、辰と豆六が、ぬれねずみになったくせ者のからだをかかえてやってきた。 「親分、いけねえ、こいつ池のなかでじぶんののどをつきやアがった」 「親分、びっくりしなはんな。こいつ男みたいななりしてまっけど、こら若い娘だっせ」  辰と豆六がくちぐちに叫びながら、ぐっしょりぬれた草のうえにおろしたのは、男のように黒装束に黒い覆面をしているが、まさしく年若い女である。  辰が覆面をとると、佐七はすでに息絶えた女の白い顔をうえから見ながら、 「おい、新之助、この娘は扇屋のお雪だろうな。おめえ、お雪をゆすろうとしたのか」  それをきくと、新之助は、びしょぬれの肩をふるわせて、ハッと草のうえに両手をついた。  ゆがんだ関係   ——間男料として七両二分 「お雪がなぜ新之助を殺そうとしたというのか。それはいうまでもねえ。お雪こそ、浄玻璃《じょうはり》だったんだな」  例によってれいのごとく、一件落着ののち、佐七のなぞ解きである。 「お雪と月光、このふたりが『浄玻璃の鏡』だったんだ。あのふたり、女同士でおかしな関係になっていた。おそらく、月光のほうから誘惑したんだろうが、まんまとその手にのったお雪という女の性情にも、どこかゆがんだところがあったんだろうな」  佐七はいまわしそうにまゆをひそめて、 「そういうゆがんだ関係におちたふたりがふたりとも、顔こそうつくしいが、心はへびのように冷たかった。他人の幸福をねたみ、他人の不幸に手をうってよろこんでいたんだな」 「親分、月光のやつ、あのかいわいの切り絵図をもっていましたが、あれでどこにどんな人間が住んでいるか、どんな隠しごとを持っているかと、片っぱしから調べていたんじゃアねえんでしょうか」 「そやそや。それに、托鉢《たくはつ》に歩きまっさかい、しぜん、いろいろわかるんだっしゃろな」 「それもある。それに、加持|祈祷《きとう》みたいなこともやっていたようだから、いろいろとまあ、ひとが打ち明けてくるんだろうな」  こうしてふたりは長いあいだ、かいわいのひとびとを不幸におとしいれていたが、天にむかって吐いたつばは、いつかおのれの顔におちてくる道理で、お雪と十次郎のあいだに縁談がもちあがるにおよんで、ふたりのあいだにヒビがはいった。  十次郎の美貌《びぼう》に心をうごかしたお雪が、この縁談に乗り気になっているのを見た月光は、ねたましさにたえかねたのと、かわいさあまって憎さが百倍とばかりに、おとくいの『浄玻璃の鏡』によって、じぶんとお雪のなかを密告したのである。 「お雪が身投げをしようとしたのは、狂言か本心かわからねえが、とにかく、それほど十次郎にゃご執心だったんだろう。ところが、十兵衛だが、お雪の投身をあわれんで、月光のところへ実否をただしにいったんだな」 「なるほど。それで月光のやつ、あることないこと、十兵衛に吹きこんだんですね」 「そやそや、どうせ女同士でトチ狂うあまっ子や、お雪もそうとうすごいやつにちがいおまへんな」 「それをお雪が毘沙門堂のなかできいていたから、こいつはただではすまねえ。月光をしめ殺したばっかりか、秘密をしった十兵衛まで殺そうとしたんだが、これは新之助に騒ぎたてられ、十兵衛はあやうく助かったんだ」 「へえ、あれは新之助だったんですか」 「そやけど、親分、新之助がどうして……?」  それは新之助の告白でわかった。  新之助がお徳のもとをとびだしたのは、お徳と十兵衛をうらんだからではなく、逆におのれのふがいなさを面目なく思ったからである。  もとをただせば、お徳は十兵衛からぬすんだのである。  その十兵衛から薬代が出ていることを新之助は早くから気づき、また、お徳と十兵衛とのあいだによりがもどっていることも、新之助はちゃんと知っていた。  それをひどく面目なくかんじて、見て見ぬふりをしているつもりであったが、そこへ舞いこんだのが『浄玻璃の鏡』の手紙、こうなるとのっぴきならない。新之助はお徳十兵衛を責めるかわりに、みずから家をとびだしたが、こうなると、憎いのはよけいなおせっかいをする浄玻璃である。  かれはその浄玻璃を、いぜんから、月光ではないかと疑っていた。というのは、お徳がまだ十兵衛のものであったころ、新之助としのびあっているところを、月光に見つけられたことがある。  浄玻璃の手紙が十兵衛のもとへ舞いこんだのは、その直後のことだったし、また、ちかごろお徳の素振りをうたがって、ひそかにあとをつけたところ、月光がまたこっそりお徳をつけているのに気づいたのである。  そして、それから間もなく、浄玻璃の手紙がおのれがもとへ舞いこんだのだから、いよいよ、浄玻璃は月光にちがいないと、毘沙門堂のほとりをうろついているうちに、十兵衛と月光の話を立ちぎきしたのである。  あのすぎ板に、おとく、おとくと書きつらねたのはもちろん新之助で、立ちぎきしているあいだに、無意識に、かれは恋しい女の名を書いたのであった。 「しかし、新之助はお雪をよびだし、いったい、どうする腹だったんでしょう」 「そりゃアな、お雪から金をゆすろうとしたのよ。新之助は気のちいせえ男だが、いや、気のちいせえ男だから、十兵衛からかりている薬代が気になってたまらねえ。そこで、お雪をゆすってその薬代を手にいれようとしたのよ」  その新之助はおしかりをうけただけですんだが、十兵衛もこうなると、もうお徳には手をだせない。間男料として、あらためて新之助に七両二分をおくると、お徳とはふっつり手を切った。  十次郎にはその後ほかからよい嫁がきたが、ここにいちばんよろこんだのは下谷《したや》かいわいに住むひとびとで、もう浄玻璃の鏡におびやかされる心配もなく、まくらをたかくしてねたという。     三人色若衆  浮き世床世間の評判   ——その隣が加持祈祷《かじきとう》の大日坊で  いつもいうことだが、江戸時代の髪結い床というやつは、町内のクラブみたいになっていたようである。  ふしぎなことには、むかしは、男は髪結いに髪をゆわせるが、女はじぶんでゆっていたものだそうである。それが市村座かどこか芝居のかつらをゆっていた百さんという床山が女の髪をゆいはじめたところ、われもわれもと希望者があらわれた。  すると、当然、百さんの模倣者がぞくぞくとあらわれて、女もおいおい専門家に結髪をまかせることになったそうだが、百さんの時代にはまだ、髪結いに髪をゆわせるような女は、所帯くずしみたいにいわれていたそうである。  それが証拠に、水野|越前守忠邦《えちぜんのかみただくに》の天保改革では、女髪結いを禁じているくらいだから、女わらべのぶんざいで、ひとに髪をゆわせるとは、なんたるゼイタクぞやということになっていたらしいのである。  したがって、江戸時代にあった髪結い床というのは野郎専門、女人禁制の別天地、ご婦人のまえでははばかるような話でも、ここでは天下ごめんである。  神田鎌倉河岸《かんだかまくらがし》で、伊勢海老《いせえび》がぴんとはねているところをおもての腰高障子にかいてあるところから、ひとよんで海老床、親分の清七というのがあいきょうもんだから、いつも町内の暇人がとぐろをまいている。ことに、金棒引きの源さんときたら、この海老床のご常連中のご常連。鳥の泣かぬ日はあっても、源さんの顔のみえぬ日はまずあるまいといわれるくらい。  それは秋の彼岸もすぎて、十日ほどのちのこと。きょうもきょうとて五、六人、若いものがあつまって、いずれは娘新造の品定めから、落ちゆくところはよからぬ相談。みんなでわいわいいってるところへ、ふらりとはいってきた男がある。  としのころは二十七、八、日焼けした、たくましい顔形をした男だが、どういうわけか、この男がはいってくると、いままでがやがや騒いでいた連中が、きゅうにシーンと鳴りをしずめた。なんとなく、目引き、そで引きというかんじなのである。  しかし、金棒引きの源さんはいさいかまわず、 「おや、巳之《みの》さん、いらっしゃい。しばらく顔をみせなかったが、またぞろ、病気が出たんじゃないかと、いまもみんなでうわさをしていたところだよ」 「冗談じゃない。そんなんならいいんだが、ここんところへきて、とんだ大世話場だ」  そういう声も沈んでいて、どこか影のある人柄だ。 「あんなことをいってるよ。巳之さん、それ、大ぬれ場のまちがいじゃありませんか」 「あれ! なあんだ、お玉が池の辰つぁんか。豆さんもいっしょだな。しばらくだったが、佐七つぁん……いや、親分やおかみさんもお元気だろうね」  と、なつかしそうな口ぶりで、このときだけは、暗い影もけしとんだようである。  この男、植木屋の職人で名は巳之介《みのすけ》、お玉が池のうまれで、佐七とは幼ともだち。 「ああ、ありがと。みんな元気ですが、それにしても巳之さん、どこへしけこんでいたんですよう。男がよくて、腕がよくて、気っぷがいいときているから、世間でさわぐのもむりはねえが、少しはおふくろさんの身にもなってあげなさいよウ」 「あれ、辰つぁん、おまえさん、いやにお世辞がうまくなったじゃないか。そんなにお土砂《どしゃ》をふりかけても、なんにも出やアしないよ。なんしろ、大世話場ときてるんだから」 「あれ、また大世話場だっかいな。巳之さん、どないしやはってん」 「どうにも、こうにも……」  と、ことばをにごしかけたが、きゅうに思いなおしたように、 「そうそう、辰つぁんも、豆さんもしってたね。姉のおはまのつれあいで、友造という男……」 「友造さんならしってますよ。染井のほうで、植木屋の親方をしているとか……」 「そうそう、その友造兄貴が、このあいだ大けがをしやアがってね」 「それはまた……」 「それがバカな話さあね。辰つぁんも豆さんも、本郷に加賀屋さんてえ大きなお店《たな》があるのをしってるだろう」 「加賀屋なら、江戸でも指折りの糸屋ですね」 「そうそう、その加賀屋さんの寮が染井にあるんだ。その寮の庭を作りかえることになって、こちとら仲間がおおぜいはいっていると思いなせえ。兄貴もその仲間にはいっていたんだが、あれアたしかお彼岸より五日ほどまえだから、いまからちょうど半月まえ」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「いや、それがバカな話で、そんとき、兄貴はたかい木のてっぺんで、はさみをつかっていたんだな。ところが、どうしたはずみか、はしごがたおれてまっさかさま」 「それで、兄さん、どうなすった」 「どうもこうもありませんや。腰の蝶番《ちょうつがい》がはずれるやら、脚を折るやら、手をくじくやら」 「でも、いのちに別条なかったんですね」 「それがあっちゃたいへんだ。しかし、かんじんのかせぎにんに寝こまれちゃ、鼻の下が干あがってしまいまさ。あとひと月はいけねえそうだから」 「おやおや」 「なに、兄貴のほうは自業自得だが、そのとばっちりが、こっちへふりかかってきたのさ」 「と、いやはりますと……?」 「兄貴のかわりにこのおれが駆りだされたというわけさ。おかげで、ここ半月ばかり、加賀屋さんの寮に泊まりこみ、ていよく人質にとられているようなものでね」 「それはそれは……」 「ところが、辰つぁん、豆さん、ここにひとつ、おもしろい話がある」 「おもしろい話というのは……?」 「いや、むこうへいってから気がついたんだが、その寮のとなりというのが大日坊さん、ほら、加持祈祷《かじきとう》でちかごろ評判の……あのひとの祈祷所なのさ。だから、兄貴め、はしごのてっぺんから大日坊さんになにか失礼なまねでもして、罰があたったんじゃねえかと……いや、これは冗談だが……」  大日坊ときいて、辰と豆六、おもわず顔を見合わせた。  どうやら、巳之介のきかせたかったのも、そのことだったらしいのである。  さや当て二人色若衆   ——姫鶴《ひめづる》は目もつりあがって気も狂乱  ちかごろ染井のほうに、大日坊と名のる坊主とも、修験者ともつかぬ人物があらわれて、あやしげな加持祈祷で愚民をまどわしているといううわさは、奉行所の耳にもはいっており、お奉行さまもちょっと神経をとがらせていた。  そこで、なんとなく、加持祈祷の内幕というのをさぐってみたが、いまのところ、かくべつこれということもないので、ご公儀でも手の出しようがないのだといううわさを、辰や豆六も小耳にはさんでいる。  いや、染井の大日坊ならば、ちかごろ神田へんからも信者が押しかけるようになっていたから、金棒引きの源さんはいうにおよばず、そこにいる八つぁん、熊《くま》さん連中も、みんなうわさはしっていた。  そこで、源さん、金棒引きの本性あらわし、にわかにひざをのりだすと、 「そうそう、その大日坊というのは、頭を総髪の四方髪かなんかにしてよウ、めっぽういい男だってんで、新造や娘が血道をあげているそうじゃないか」 「いや、わかいあまっ子がさわぐのはお小姓のほうよ。なんでも銀弥《ぎんや》とかいうお小姓がいてよ、水の垂れそうなよい器量だそうだ」  と、八つぁん熊さんのひとりがいうのをきいて、源さんひざをのりだすと、 「そうそう、そういえば巳之介さんは、こちとらが夢中になる表門はまっぴらごめんで、もっぱら裏門専門だという話だが、ひょっとすると、その銀弥というお小姓に気があるんじゃねえんですかえ」  と、調子にのってつい口をすべらせたから、とたんに座がサーッとしらけた。  巳之介がせおう暗い影とはこのことなのだ。かれは性欲倒錯者、男色家であった。  いったい、江戸時代では、男色のことを衆道とよび、現代におけるほど不自然視や、罪悪視されてはいなかったらしい。  武家は小姓を寵愛《ちょうあい》し、女犯《にょぼん》を禁じられている僧侶《そうりょ》は、寺小姓によってセックスのはけ口をもとめた。  民間には陰間茶屋というのが、公然と営業していた。陰間というのは、いまのゲー・ボーイのことである。  したがって、男が男とねるということは、現代人がかんがえるほど異端視されてはいなかったらしいが、なにごとにも限度がある。たまに陰間茶屋であそぶていどならいいが、ここにいる巳之介みたいになるともういけない。  かれのまわりには、いつも陰間的少年がいて、さいきんではそういう男の子と、まるで夫婦みたいに暮らしている。なんでも、辰や豆六のきいているところでは、本郷の森川宿あたりの貧乏寺に同好の坊主がいるとやらで、その破《や》れ寺の、かつて寺男の住んでいた小屋で、少年あいてにゆがんだ生活をしているそうだ。 「巳之さん、巳之さん」  豆六が、しらけかかった座の空気を救うように、 「あんたの兄さんのことだっけどな。友造はんがそないな災難にあわはったちゅうのんは、なにか大日坊さんにたいして、失礼なまねでもしやはったんとちがいまっか」 「失礼なことというと……?」 「木のてっぺんから、祈祷所のほうへさして、シャーッ」 「まさか。子どもじゃアあるめえし。やっぱり災難というのだろうが、そうそう、豆さん、その災難でおもいだしたが、兄貴の合い長家に、めくらの尺八吹きがいるんです。これがとんだ災難で、あたらいのちを落としたそうだ」 「巳之さん、それはどういう話なんです」 「いや、辰つぁん、たわいもねえ話だから、そのつもりで。そのめくらの尺八吹きてえのは、磯田孫之進《いそだまごのしん》という浪人者なんだが、先年つれあいに先立たれ、お君という八つか九つになる娘がひとりいるきりなんだそうだ。この娘が手引きとなって、門《かど》付けみたいなことをやってたんだな」 「侍も禄《ろく》にはなれるとみじめなもんやな」 「ほんとにそうだよ、豆さん。それがこのあいだのお彼岸に、どっかでおはぎをもらってきて、お君とふたりで食べたところが、その晩、血ヘドを吐いて死んだそうだ」 「おはぎに毒がはいっていたと……?」 「まさか、あんなやせ浪人に毒をもるやつもあるめえが、あんこがくさってたんだろうな」 「そやけど、巳之さん、あんこがくさってたんやったら、お君もやられるはずやおまへんか」 「だから災難よ。これをおもうと、災難というやつは、いつ、どこからふりかかってくるかしれたもんじゃねえ」 「ほんとにそうだ。おれなんかもいつか……」  これがしり馬にのるというやつで、海老床の暇人連中、ひとの災難をさかなにして、ひとしきり災難論に花をさかせていたが、そのとき表の腰高障子のまえにだれか立ったとおもうと、 「あの、ちょっと……」  障子のすきまからのぞいた人物の顔をみて、なみいる連中、おもわずぎょっと息をのんだ。  ひとめでしれる色若衆。  前髪立ちにうす化粧をして、少しくたびれてはいるが縮緬《ちりめん》の中振りそで。これが赤い日傘《ひがさ》をくるくるまわしながら、女のようにしなをつくってなかをのぞきこんだのだから、一同、ぎょっとしたのもむりはない。  さすがの巳之介も鼻白んで、 「おお、万菊か。おれがここにいることがどうしてわかった」 「いえ、あの、ちょっと……」 「そうか。よし、それじゃいこう」  キセルをしまうのもそこそこに、 「みなさん、おじゃまをいたしました。辰つぁん、豆さん、かえったら佐七つぁん……じゃなかった、親分によろしくいっておくんなせえ。じゃ、万菊、いこう」  と、もつれるように出ていったから、一同しばらく毒気をぬかれて、ポカーンと口をあけていたが、そのうち、熊さん八つぁんのひとりが、 「ちきしょうッ、巳之公、ここへ稚児さんを、みせびらかしにきやアがったんだな」  と、口角あわをとばしてくやしがったから、さあたいへん、一同ケンケンゴーゴー、なかには巳之介の艶福《えんぷく》を羨望《せんぼう》するもの、なかには男色なんて不潔であアるといきまくもの、しばらくは議論フットウして、とどまるところをしらなかったが、 「だけどよウ、みんな、いまの、万菊とかいったな、なかなかかわいかったじゃねえか」  辰はまだ毒気をぬかれっぱなしの顔色だったが、豆六も顔の寸をながくして、 「そやそや、巳之さん、いったいどこから、あないにかわいい子、さがしてきやはりまんねん」 「さあ、それだよ、辰つぁん、豆さん」  と、ひざをのりだしたのは源さんで、 「巳之さん、いったい、どういう手を使うのかしらないが、いっぺん、あのひとに抱かれてかわいがられると、ああいうたちの子、みんな夢中になってしまうらしい」 「へへえ、それじゃ巳之公、なぜその手を女の子にもちいねえんだ」  と、ふくれっ面をしたのは、あくまで男色不潔論者らしい。 「ところが、巳之さん、女の子にゃアてんで気がねえんだからしようがねえやな。わたしゃまえの子もしってるが、その子もかわいかったな。名前はたしか姫鶴《ひめづる》とかいったっけ」 「源さん、それじゃ、巳之さんときどき念者をかえるのか」 「それゃアそうだよ、辰つぁん」  と、源さんはしたりがおに、 「ああいう子の寿命てえものは短いもんでね。いまの万菊って子だって、いまんちが花だあね。もう一年もたってごろうじろ、寸は伸びる、骨は固くなる、ひげはザラついてくる。そうなったらもう姥桜《うばざくら》、年増だアね」 「花のいのちはみじかくて……か」  まさか、そんなことはいうまいが、みんなでワイワイいいながら、源さんの男色談義をきいていると、またしても表の腰高障子に、パッとはなやかな影がさしたかとおもうと、 「あのちょっと……」  障子のすきからおどおどと顔を出したすがたをみて、一同はまたぎょっと息をのんだ。  これまた、さっきの万菊とおなじ色若衆、器量といい、みなりといい、にたりよったりだが、このほうはだいぶとう[#「とう」に傍点]が立っている。 「あいあい、兄さん……じゃなかった、ねえさんかえ。なにかおいらにご用でも……」  熊さん、八つぁんのひとりが声をかけると、 「はい、あの、こちらへ森川宿の兄さん、おみえになりゃアしませんでしたか」 「森川宿の兄さんとはどなただえ」 「植木職の巳之介兄さんのことでございます」 「ああ、巳之さんか。巳之さんならいままでここにいたんだが、ひとあしちがいでかえっていった。情人《いろ》が迎えにきたんでね」 「情人とおっしゃいますと……」 「たしか、万菊とかいったなあ、八つぁん」 「えっ、それじゃ万菊さんが兄さんを……?」  色若衆の形相がさっとかわった。眉間《みけん》を紫電がはしるというのは、こういうときにつかうことばだろう。無責任なのが熊さん八つぁんの通弊で、これを見るとおもしろがって、 「そうそう、その万菊さんが、迎えにおいでになったのよ。そしたら、巳之公め、鼻の下を一丈五尺くれえにのばしやアがった。おまけに、よだれのたれそうな顔でよ、万菊さんとお手々つないで、でておいであそばしたとよ」 「それは、いつごろのことでございます」 「だからいったじゃねえか。ひとあしちがいだってさ。惜しいことをしたよ。おまえさんは」 「そして、ふたりはどちらのほうへ……?」 「たしか筋違御門《すじかいごもん》のほうへいったようだぜ」  でたらめを教えても、真にうけるのがあわれである。これアこうしてはいられぬわえとばかりに、あいさつもそこそこにして、褄《つま》ひっからげてかけだしていくその目つきのつりあがっているのをみて、一同|唖然《あぜん》として顔見合わせ、しばしことばもなかりけり。 「あれだよ。さっきあっしのいった姫鶴というなあ」  金棒引きの源さんが憮然《ぶぜん》としていった。  野路をゆく色若衆   ——こら、万菊や姫鶴とは段違いや 「いや、それがね、親分もあねさんもきいてください。さいしょやってきた万菊というなア、しもぶくれの、なかなかかわいい色若衆なんですが、あとからやってきた姫鶴とくると、もういけませんや。まるでやり手ばばあですね」 「あれでも、二、三年まえはよかったんやと、源さんはいうてましたけんどな」 「二、三年まえはどうだかしらねえが、いまじゃもういけません。ああギスギスしちゃアね。まるできつねみてな若衆ですぜ」 「ほんまや、ほんまや、あら、きつね若衆や」  海老床からかえってきた辰と豆六が、おもしろそうに話しているのを、そばで聞いていたお粂が、 「それで、そのふたりはどういうの。玄人なの、地者《じもの》なの」 「いや、それがね、万菊のほうは源さんもしらねえんですが、姫鶴のほうならよくしってるんです。もとは下谷へんの、大きな畳屋の年季小僧だったそうです。ほんとの名前は千吉といって、器量はいいし機転はきくしで、みんなに目をかけられていたんだそうで」 「それを兄弟子のなかにものずきなんがいて、むりむたいに抱いてねよったんだんな。それで味おぼえよったんやちゅう話だす」 「ああいうことは、いっぺん味をおぼえさせられると、くせになるんだそうですね」 「それもひとによりけりだろうがね」  佐七はなるべくこの話題から逃げたいらしいふうだった。  巳之介とは幼ともだち、お玉が池でいっしょにそだち、けんかもしたが遊びもした。度胸もいいし、気性もさっぱりしている。ゆくゆくは、よい親分になるだろうとおもっていたのに、どこでどう運命のネジが狂ったのかと、巳之介のうわさを聞くたびに、佐七は心がくらくなる。  そこで気をかえるように、 「お粂、おはまさんのご亭主が大けがをしたというなら、見舞いにいかなきゃいけねえな」 「そうしてください。巳之さんのおっかさんには、まいどお世話になってるんですから」 「それじゃ、二、三日うちにいってみよう」  とはいうものの、御用のほうがいそがしく、佐七がやっと染井まで足をのばしたのは、それから十日もたっていた。  本郷も兼安までは江戸のうちというが、その本郷からはるか奥へはいった染井のへんは、もうすっかり田舎である。このへんには植木屋がおおく、ひろい植えだめがつづいているなかに、大店《おおだな》の寮とおぼしいかまえが点在していた。  染井へついて、二、三度ひとにたずねると、友造の長屋はすぐわかった。そっちのほうへ田んぼのあぜ道をたどっていくと、あたりいちめんにすすきが穂をだし、彼岸花が咲いていた。 「親分、あの鉦《かね》の音がそやおまへんか」 「そうだ、そうだ。お彼岸からかぞえて二十一日、きょうは磯田孫之進さんの、三七二十一日ですぜ」  なるほど、すすきをこえて陰気な鉦の音がきこえてくる。それを目当てにちかづいていくと、孫之進のすまいのまえに、長屋の衆があつまっている。そのまえを通りすぎて、友造の長屋のまえまでくると、 「おまえさん、やっぱりおかしい。あれっきり、鬼若のすがたをみたものはないらしいよ」  と、家のなかからきこえてきたあたりをはばかるひそひそ声はおはまである。 「それじゃ、やっぱりあのとき……」  と、そういう声は友造らしい。 「きっとそうだよ。それでひとしれず、庭のすみへでも埋めてしまったにちがいないよ」 「しかし、どうしてそんなことをするんだろう。もし、これが……」 「しっ、声がたかいよ。あら、どなた……?」  おはまが立ちあがってこちらへくる気配に、佐七はがらりと格子をひらいた。 「ごめんよ、友造さんのうちはこちらかえ」 「あら!」  上がりかまちのやぶれ障子をひらいたおはまは、佐七の顔をみるとちょっとほおをこわばらせたが、すぐ、愛想笑いをむりにつくって、 「あら、まあ、お玉が池の親分さん、なにかこのへんに変わったことでも……」 「なにいってるんだよ。ご亭主《ていしゅ》のお見舞いにきたんじゃないか。どうだえ、その後は」 「あら、まあ、それじゃわざわざお見舞いに……それはそれは。さあさあ、どうぞおあがりなすって。貧乏所帯できたなくしてて、お恥ずかしいんですけれど……おまえさん、お玉が池の親分さんが、お見舞いにきてくだすったんですよ。辰つぁんも、豆六さんも、どうぞ、どうぞ」  おはまはむかしから、よくしゃべる女だったが、ひとのよい、意気地なしの亭主をもって、いっそうよくしゃべる女になっている。 「ああ、親分、きたないところへわざわざお見舞い、恐れいりました。行儀が悪うございますが、ご勘弁くださいまし」  おはまにたすけられて、せんべい布団のうえにおきなおった友造は、まだあちこちに布をまいている。ひげも月代《さかやき》ものびほうだいである。 「なに、いいってことよ、楽にしておいでなさいまし。それにしても、とんだ災難でしたね」 「ほんにいい年をして、面目しだいもございません。それにしても、だれにあっしのことをお聞きなすって」 「なに、この連中が髪結い床で、巳之さんにあって聞いてきたのよ。それで、お粂が心配して、見舞いにいってくれというもんだから……そうそう、なにか買ってこようとおもったが、いい思案もでねえもんだから、まあ、これで、好きなものでも買って食べてください」 「それはそれは……おはまどうしよう」 「せっかくですから、いただきましょう。親分、ありがとうございます」 「ときに、親分、巳之はあっしのことをなんといっておりました」  友造はなんとなく探るような目つきである。 「そうそう、友造さん、巳之さんはこういってましたぜ。おまえさんの災難におうた寮のとなりが、いま評判の大日坊さんの祈祷所《きとうしょ》だそうで、なにかおまえさんがその祈祷所へ失礼なことをやったので、罰があたったんじゃねえかって」 「友造はん、あんたはんそっちのほうへ、シャーシャーやらはったんとちがいまっか」 「あれまあ、おふたりさんのなにをおっしゃることやら」  おはまは笑いにまぎらわせたが、そのせつな、友造となにか目くばせしたようだった。 「ときに、巳之さんはまだ加賀屋さんの寮に……」 「はい、まだひと月はかかるそうで。けさがたも見舞いにきてくれました」 「その巳之さんからきいたんだが、この長屋に住むご浪人が、お彼岸のおはぎにあたって、死んだんだそうですね」 「そうそう、それできょうが二十一日。磯田さんもとんだご災難で、いっしょに食べたお君ちゃんは、なんともなかったんですからね」 「いったい、そのおはぎはどこからでたんだえ。巳之さんの話によると、どっかからのもらいもんだということだが」 「ほら、染井七軒町に、佐々木|茂右衛門《しげえもん》さんといって、名字帯刀をゆるされた大名主がございましょう。そこで、お彼岸におはぎの施行《せぎょう》をしたんですね。だから、あの日佐々木さんでおはぎをもらって食べたひとは、ほかにもたくさんあるはずなんですけれど、ほかにそんな話がないところをみると、あたったのは磯田さんだけなんでしょう。だから、災難ってどこにころがっているかわからないって、みんなでいってるんですよ」  辰と豆六はおはまのおしゃべりにうんざりしていたが、佐七はなぜか身にしみてきいていた。  それからまもなくそこをでると、ついでに大日坊の祈祷所というのを拝んでいこうということになり、おはまにきいていた見当であるいていくと、片側にながい築地《ついじ》があり、築地のなかはうっそうと木が茂っている。 「親分、これが加賀屋の寮ですぜ」  その築地にそってあるいていくと、うしろからバタバタと足音がして、 「親分、親分」  ふりかえってみると巳之介だった。仕事のなかをぬけてきたとみえ、手に大きなはさみをもっている。 「おお、これは巳之さん、しばらくだったね」 「いつもごぶさたで申し訳がねえ。いまむこうの木のてっぺんから、おまえさんのすがたを見つけたもんだから、あとを追ってきたんだが、きょうはどちらへ?」 「なにさ、おはまさんのところへ、ちょっとお見舞いにいってきたのさ」 「それはそれは……よけいなことをいわなきゃよかったな。これからどちらへ……」 「ちょっと、大日坊さんの祈祷所というのを拝んでいこうと思っているのさ」 「大日坊の祈祷所なら、あれだが……」  巳之介が木ばさみでゆびさしたのは、田んぼいちまいへだてたむこうがわ、築地のなかに木が茂っていて、そのあいだから、白木造りの建物がみえている。 「あれゃアちかごろあたらしく建ったのかえ」 「おいらも詳しいことはしらねえが、なんでもあれはもと、駒込《こめごめ》へんのお店《たな》の寮だったのを、一昨年の秋大日坊がゆずりうけ、あの豪勢な神殿づくりは、大日坊が建てたんだそうです。ところが、親分、ちょっとおもしろいことがある」 「おもしろいことって……?」 「友造の兄貴がずっこけた木というなア、あの松の木なんだが……」  巳之介が指さすところをみると、うっそうと茂った加賀屋の寮のなかでもひときわ高く、空にそびえている松の木がある。 「おらあ、こないだ、あの松の木へのぼってみたんです。兄貴が落ちたという枝までいってみました。枝がおれていたから、すぐわかりました。そこから、あたりを見まわすと……?」 「そこから、あたりを見まわすと……?」 「大日坊の祈祷所がまるみえよ」 「それじゃ、巳之さん、友造さんが木から落ちたのは、大日坊の祈祷所でおかしなことがあったのをつい見てしまって、それで、びっくりして落ちたんだと……」 「そうとしか、考えようがねえじゃありませんか。あの年季のはいった兄貴が、あだやおろそかに、はしごをふみはずすはずがねえもの」 「それについて、兄さんや、姉さんは……?」 「それがおかしいんです。そいつをきくと、兄貴も姉も、ひどくおびえるんです。だから、なにかを見たとしたら、よっぽど変なところを見たにちがいねえ」  佐七はちょっと考えたのち、 「ときに、巳之さん、おまえ鬼若という男をしらねえかえ。ひょっとすると、大日坊の祈祷所にいる男じゃねえかと思うんだが」 「さあ、しらねえな。あの祈祷所にいるやつで、おいらのしってる人間てえのは……おっと、うわさをすれば影とやらだ。ほら、むこうから、大日坊の駕篭《かご》がやってきましたぜ」  なるほど、そのとき、むこうの野道を一丁の駕篭がやってくる。駕篭といってもふつうの辻駕篭ではなく、貴人ののるような黒塗り網代《あじろ》、したがって、なかに乗っている人物のすがたは見えない。 「巳之さん、巳之さん、あの乗り物のそばについているのが、お小姓の銀弥かえ」  辰は声をひそめたが、巳之介はこたえない。くいいるようにお小姓のおもてに注いだ目は、烈々と熱をおびていて、木ばさみをつかんだ指に、おそろしく力がこもっている。 「わっ、なるほど、これはあでやかや。これやったら巳之さんがゾッコンと……」  そこまでいって豆六は、あわてて口にふたをしたが、その声がきこえたのか、駕篭わきをいくお小姓銀弥は、ちらとこちらに視線をむけた。そして、そこに立っている四人のすがたに目をとめると、ポーッと顔にもみじをちらしたが、いや、その艶《えん》なること、妍《けん》なること、筆にもことばにもつくしがたい。  としは十五か十六か、前髪に大きくたばねた髷《まげ》はからすのぬれ羽色、みずみずしい色気がこぼれんばかり、おんもらとした気品のある色若衆、くちびるのしたに小さなほくろのあるのも色っぽい。  衣装は水あさぎの中振りそで、露芝に秋の七草のもようをちらして、袴《はかま》は紫がかった、あらい紗綾形染《さやがたぞ》め。どこにも紅だの、朱だのをあしらってないのがよく、色っぽいことも色っぽいが、またさわやかな感じもあり、こういうすがたで、すすきのそよぐ野道をいくところは、さながら一幅の絵であった。 「なるほど、これじゃ巳之さんの念者、万菊や姫鶴とはだんちがいだアね」  辰はおもわず口のなかでつぶやいて、しまったと、巳之介のほうをふりかえったが、巳之介はそれがきこえたのかきこえないのか、あいかわらず、食いいるように、銀弥のすがたをみつめている。  銀弥はまぶしそうにその視線をよけながら、駕篭のそばにつきそって、いましも八文字にひらかれた祈祷所の門のなかへはいっていった。駕篭のなかの人物は、とうとう、すがたを見せずじまいである。  大日坊とお小姓銀弥   ——どちらにしても色仕掛けですね  その夜、ひと足さきにかえった佐七が待っていると、五つ半(九時)ごろになって、辰と豆六がかえってきた。ふたりともあかい顔して、酒臭い息をはいている。 「親分、すっかり巳之さんにごちそうになってしまいました」 「こんど会うたら、礼いうておくれやす」 「ああ、そうか。それもいいだろう。ときに、鬼若というのはわかったか」 「わかりました。これゃア巳之さんのしらなかったのもむりはねえんで」 「親分、びっくりしたらあきまへんで。鬼若ちゅうたかて、人間やおまへん。犬だすがな」 「犬……?」 「そうなんです。大日坊が飼っていた子牛ほどもある土佐犬だそうです」  佐七はなんだか肩すかしをくったような気がした。 「それで、その犬のゆくえがわからねえのか」 「へえ、そうなんで。大日坊はどこかで迷い犬になってるんだろうといってるそうですが、あんな大きな犬が迷い犬になったら、すぐわかるはずだというんです。おまけに、親分、巳之さんと指折りかぞえて勘定すると、友造さんが大けがをしたのと、鬼若のいなくなったのと、ちょうどおなじじぶんなんです」 「そやさかい、こら、やっぱり、巳之さんのいうとおりだっせ。友造さん、木のてっぺんから、となり屋敷の大日坊の庭で、なにかあったん見やはったにちがいおまへん」  おはまはひとしれず庭のすみへ埋めたにちがいないといっていた。埋められたのが犬の死骸《しがい》だったとしたら、友造夫婦はなぜあのように、恐れおののくのであろう。 「いったい、大日坊というのはどういうやつだ。近所の評判はどうなんだ」 「近所ではよくもわるくもありません。信者はみんな、遠方からくるんですからね」 「女が騒ぐということだが……」 「巳之さんのはなしによると、としは四十前後、頭を総髪にして、法眼袴《ほうげんばかま》なんかはいて、大いに威厳をとりつくろうてるそうです。とくべついい男でもねえが、でっぷりふとった恰幅《かっぷく》のいい男で、不敵なつらだましいのうちに、どっかあいきょうがあって、そんなところへ、うわきな年増やなんかがひっかかるんだろうって話です」 「ところが、親分、年増のさわぐのは大日坊やけんど、わかいあまっ子が血道をあげるのは銀弥のほうで、銀弥がおとりに使われとるようやと、巳之さんいうてました」 「どっちにしても色じかけか」 「そうです、そうです。加持祈祷《かじきとう》なんていったところで、なにをやっていることやら、信者に女がおおいところをみるとね」 「つれあいはねえんだな」 「つれあいがあっちゃ、信者はあつまりません。だから、夜になると銀弥がいっしょにねて、おかみさんの役目をはたしているんじゃねえかって、巳之さん、それが気になるらしい」 「巳之さんといえば、あいかわらずだんな」 「あいかわらずとはなんだ」 「いえね、あっしどものごちそうになったのは、あのへんの、ひさご屋てえうちなんですが、五つ(八時)ごろ、姫鶴てえのが呼びだしにきましたよ。それで巳之さんとわかれたんですがね」 「きいてみたら、万菊ちゅうのんも、ときどきやってくるちゅう話だす。巳之さん、いまや両手に花だんな」  しかし、佐七としては、その話は、あんまりききたくなかったので、 「ほかにどんなやつがいるんだ、その祈祷所にゃ」  と、話題をもとへひきもどした。 「へえへえ、弥兵衛《やへえ》といって、お札配りみてえななりをしたじいさん、これが用人というところ。それからお杣《そま》というのが弥兵衛の女房、これが巫女《みこ》みてえに、髪をおすべらかしにして、緋《ひ》の袴《はかま》をはき、これが御祈祷のとき、助手みてえなまねをするんだそうで。いまのところ、その四人だそうです」 「しかし、きょう会った駕篭かきは……?」 「あれゃ近所の百姓で、用があるとき、そのつど雇うことになってるんだそうで」 「そのほかに、せんには岩松ちゅうて、相撲あがりの、それこそ仁王さんみたいなでっかいからだをしたやつがいたちゅう話ですけどな」 「なんだ、その岩松というのは……?」 「用心棒ですよ。こいつが油墨で鎌髪《かまがみ》をかき、紺看板に梵天帯《ぼんてんおび》、木刀をいっぽんたばさんだ奴《やっこ》すがたで、紅白になった鬼若のつなをひき、大日坊のお供をしているところは、威風あたりをはらったもんだそうですが、鬼若のすがたがみえなくなったじぶんから、岩松という野郎もお払いばこになったかして、どこかへ消えちまったそうです」  佐七はだまって考えていたが、 「ときに、大日坊と銀弥の素性だが、そこまでは手がまわらねえだろうな」 「へえ、ことばに上方なまりがあるてえ以外には、まだなんにも……」  辰と豆六は頭をかいた。 「いいよ、いいよ、それより、染井七軒町の佐々木茂右衛門というのはどうだえ」 「へえ、かえりに七軒町へもよってみましたが、さすがは大名主だけあって、りっぱな構えですぜ。屋敷なんかも、一町四方ぐれえはありそうです。あるじの茂右衛門は四十五、六、なかなか有徳の人物だという評判ですが、ことし十六になるお蝶《ちょう》という娘をひとりのこして、先年、おかみさんが亡くなったんですね」 「そこで、おととしの春、お喜多はんちゅう後添いをもらはったんやが、お彼岸におはぎの施行をしたちゅうのんも、先妻の供養のためやったちゅう話ですわ」 「おはぎを食って死んだという磯田孫之進と佐々木の家と、なにかつながりでも……」 「あれアただ門付けに立っただけらしいんですが、ここにちょっと心がかりというのは……」 「ふむ、ふむ、心がかりというのは……?」 「佐々木の主人の茂右衛門というのが、大日坊の信者だそうです。それに、娘のお蝶というのがお小姓の銀弥に血道をあげて、やいのやいのだって評判ですが……」 「さりとて、親分、これが磯田孫之進の中毒と関係があろうとは思えまへんけんど」 「それじゃ、大日坊や銀弥は、佐々木の屋敷へ出入りをしているんだな」  佐七はだまって考えていたが、 「辰、豆六、なんとかして、大日坊の祈祷所の庭をしらべるくふうはあるまいか」 「親分、巳之さんもそれをいうんです。いっぺん祈祷所の庭をさぐってみてえと……」 「かましまへんやないか。巳之さん、あっちゃにいやはんねんさかい、つごうのええ晩を知らせてもろたらどうだっしゃろ」  素人の助力をかりるということを、佐七はもちろん好まなかったが、辰と豆六め、よっぽどうまく鼻薬をかがされたとみえ、しきりにそれを主張するものだから、佐七もふたりにまかせることにした。  毒草とりかぶとの根   ——佐々木の屋敷でもだれかが毒を 「巳之さん、それじゃこんや大日坊も、お小姓の銀弥もるすだというんだね」 「へえ、こんや七軒町の佐々木の屋敷で、月見の宴《えん》があるとやらで、ふたりとも、宵《よい》から招かれていったんです」 「すると、こんやこの祈祷所にゃ、弥兵衛とお杣《そま》の夫婦っきりか」 「ふたりとも、そうとうもうろくしてますから、ちょっとやそっと、音を立てても大丈夫で」 「いってえだれが忍びこむんだ。辰か、豆六か」 「親分、あっしにやらせてください。商売柄あっしゃ身がかるい。それに、見当をつけてる場所もありますから」 「じゃ、巳之さんにたのもうか」  そこは祈祷所の築地《ついじ》の外。こんやは九月十三夜、のちの月である。さいわい空はいってんの雲もなく、十三夜の月が絵にかいたようである。その月影をさけるように、祈祷所の築地の外でひそひそ話をしているのは、人形佐七と辰と豆六、いまひとりは巳之介だ。  巳之介は築地に両手をかけ、ひらりとトンボがえりをすると、はや、すがては塀《へい》のむこうに消えていた。 「うまいもんですね。巳之さん、ときどきやってるんじゃねえか」 「あほなこといわんとき」  この祈祷所はもと大店《おおだな》の寮だったのを、大日坊が手をくわえたものだから、庭などもひろく、いかに巳之介が見当をつけておいたとはいえ、探しだすのにそうとう手間がかかるだろうと思いのほか、まもなくなかから合図があって、むこうの裏木戸がギイとひらいた。 「親分、こっちだ、こっちだ」 「おお、木戸があいたか」  三人が木戸のなかにすべりこむと、木の間をもれる十三夜の月の光が、庭いちめんに、うつくしい斑点《はんてん》をえがいている。 「巳之さん、なにか見つかったのか」 「細工は粒々、親分、こちらへ……」  巳之介が三人を案内したのは、築山のうしろの茂みのなか。木々の茂みにおおわれて、そこらいちめん、土がじけじけしているが、そのしめった土をおおうて、あたりいちめんしげっているのは雪の下。 「この雪の下で、いったん掘じくりかえした跡をごまかしているんです。素人はごまかされても、こちとらが見ればすぐわかる」  雪の下の株をとりのけると、はたして黒い土にまじって、赤土がすこし表面に出ている。 「辰、豆六、おまえたちも掘ってみろ」  さいわい、そこは母屋をとおくはなれているので、少々のもの音では気づかれる心配はない。いちど掘りかえした土のあとはやわらかく、まもなく巳之介がなにかにさわって、 「あっ、ここになにかある。辰つぁん、豆さん、ここを手伝っておくんなさい」 「おっとしょ」  三人が六本の手で土をかきわけていくと、にょっきりあらわれたのは犬の脚。これに勢いをえた三人が、なおも土を掘りおこしていくと、やがて、そこにあらわれたのは、子牛ほどもあろうという土佐犬で、くわっと歯をむき出したつらがまえが、ゾーッとするほど獰猛《どうもう》である。 「どっかからだに傷があるか調べてみろ」  どこにも傷はなかった。 「親分、これゃやっぱり、いっぷく盛られたんですぜ。ほら、口のまわりに血がいっぱい」 「そやそや、そして、この犬がいっぷく盛られるとこを、友造はんが見やはったんやおまへんか」  この犬が血ヘドを吐いてもがき苦しむところは、さぞものすごかったにちがいない。 「親分、ちょっとこっちへ来ておくんなさい」 「えっ、巳之さん、なにか……?」 「ちょっと見せてえものがあります」  巳之介がつれていったのは庭のすみ、そこにひとむらの草が生えている。 「親分はこの草をご存じですか」  それは草丈二、三尺、ふかく切れこんだ手のひらのような葉がついていて、花はすでに散ったらしく、ふさのように実がなっている。それを見ている佐七の顔に、みるみるおどろきの色がふかくなってきた。 「巳之さん、これゃとりかぶとじゃ……」 「親分はこれをご存じで……?」 「ふむ、まえに、この根の毒をつかった一件をあつかったことがあるのでしっている。(『たぬきじる』)巳之さん、それじゃこの毒で……」 「そうです、そうです。この根を煮つめると、どろどろのあめのようになる。そいつをのむと、たちどころに血ヘドを吐いて……ところが、親分、あっしゃこの目で、加賀屋の寮の松のうえから、大日坊がこっそりとこの根を掘っているところを見たんですよ」  一同がぎょっと目と目を見かわしていると、母屋のほうが急にさわがしくなってきた。見つかったのかと思ったが、だれもこちらへくる気配はなく、しかも、騒ぎはつづいている。 「親分、あっしがようすを見てきましょう」  巳之介は横っとびにとんでいったが、しばらくするとかえってきて、 「親分、たいへんだ。七軒町の佐々木の屋敷で、だれかが毒をのまされて、死んだとか死なぬとか、使いのものがしらせてきたんです」  一同ははっとして、むこうによこたわっている鬼若の死体と、あたりに群生しているとりかぶととを見くらべた。  毒殺されたは大日坊   ——後妻のお喜多も血ヘドを吐いて 「なんだか、ご近所がそうぞうしいようですが、なにかありましたかえ」  辰と豆六をひきつれた佐七が、それからまもなく顔をだしたのは、染井七軒町の自身番。時刻はかれこれ五つ半(九時)、みちみち三人の頭にうかんだのは、毒殺されたのはあるじの茂右衛門で、茂右衛門を殺した毒は、とりかぶとであろうと考えられたのだが……。 「おお、これはお玉が池の親分、よいところへきておくんなすった。とんでもないことが持ちあがって……」  そう声をかけたのは町役人の重兵衛。 「大家さん、いったい何事がおこったんです。きけば、佐々木さんのお屋敷で、なにか変事がおこったとか……」 「変事も変事、たいへんなこった。親分、わたしもこれから出かけるところだ。おまえさんもいっしょに来ておくんなさい」  重兵衛につれられて、佐々木の屋敷の門をくぐると、ひろい屋敷内は、ひとのいききがあわただしかった。  その大きなかまえの離れ屋敷へ案内されると、縁側にはすすきや月見団子がかざってあり、座敷にはお膳《ぜん》がならんでいたが、ひっくりかえったお膳が三つ、そして、そのあいだに男と女のふたりが、断末魔の苦悶《くもん》の形相ものすごく、たたみにつめをたてて死んでいるのを、いま医者が診察しているところだった。  佐七はそっと死体のそばへより、男と女の風体に目をとめたが、とたんにぎょっと目をそばだてた。  なんと、血ヘドを吐いて死んでいるのは大日坊らしい。  大日坊は、白衣に水色の法眼袴《ほうげんばかま》をはいているが、白足袋をはいた足が苦悶のためにそっくりかえり、総髪がほおにかかって、口からあご、あごから胸にかけて、血にまみれた形相が凄惨《せいさん》である。  なるほど、かくべつよい男というのではないが、ゆたかな肉付きとたくましい骨組み、みずみずしい膚の色つやは、みょうに肉感的である。中年男の厚顔無恥な色気が、膚にギラギラ浮いているような男であった。  さて、もうひとりの被害者は、としのころ三十前後、ちょっとあでやかな器量の女だ。 「このお女中は……?」 「こちらのお内儀で、お喜多さまとおっしゃいます」  お喜多は色白の、豊麗な容姿のもちぬしだが、えくぼのきざまれた豊頬《ほうきょう》が、藍《あい》をなすったように青ざめて、くちびるのはしにおびただしい血のついているのが、ゾーッとするようだ。  座敷のなかは、このふたつの死体と医者のほかには、奉公人がうろうろしているだけで、家人のすがたはどこにも見当たらなかった。 「もし、先生、こちらのご主人は……?」 「だんなはむこうのお座敷に伏せっていらっしゃいます。お蝶《ちょう》さまはそのそばに……」 「それじゃ、こちらのだんなも……」 「はい、多少吐血なさいましたが、さいわい、かるくてすむようです」 「いったい、なにが当たったんでしょう」 「吸い物のきのこじゃないかといってるんですが、それにしてもすこしようすが……」  と、医者はくわい頭をかしげていた。  町役人をとおして佐七が面会をもとめると、茂右衛門はこころよく承知して、すぐ裏座敷へとおされた。  絹布団にくるまった茂右衛門は、さすがに顔色はわるかったが、大家のあるじらしい落ちつきはうしなわなかった。そばにはお蝶だろう。十六、七のかわいい娘と、二十前後の体格のよい若者が、どっしりとした貫禄《かんろく》をみせてひかえていた。かれは先妻の甥《おい》で、万五郎というものであると、みずから名のった。 「だんな、とんだことができましたが、いったい、どうしたというんでございますか」  佐七の質問に、茂右衛門は顔をしかめて、 「いや、どうしたことやら、わたしにもさっぱりわからない。こんや大日坊さんと銀弥どのをむかえ、主客六人、月見の宴を張っていたところが、きゅうに大日坊さんとお喜多が苦しみだして……びっくりして、おろおろしているうちに、わたしも胃の腑《ふ》が苦しくなって……」 「そして、お蝶さんや万五郎さんは……?」 「いえ、わたしども……わたしも、お蝶さんも、銀弥どのにも、べつに異状はありませんでした」  万五郎は落ちつきはらっていた。 「おお、そういえば、銀弥さんのすがたがみえねえようでございますが……」 「銀弥どのなら、さわぎがおこるとすぐ、染井のうちへしらせてくると、駕篭《かご》をやとってかえっていかれたようですが……」  それでは、さっき大日坊の家でさわいでいたのは、銀弥がしらせにかえったのか。それにしても、しらせるだけならこの家にも奉公人がおおぜいいるはずである。  佐七ははっと、はげしい胸騒ぎをおぼえた。  秘帖『女人奉加帳』   ——四方の壁いちめんに秘戯|曼陀羅《まんだら》  あとのことは町役人や医者にまかせて、佐七は辰や豆六とともに、染井の祈祷所《きとうじょ》へひきかえしたが、はたして銀弥はいなかった。  用人の弥兵衛や、女房のお杣にたずねると、銀弥は急をしらせにかえってきたが、すぐまたとび出していったという。 「わたしどもはお師匠さまのお亡骸《なきがら》がかえってくるのをお待ちしていたところで」  ふたりともおどろきのあまり、魂も身にそわぬという顔色である。 「それじゃ、銀弥さんはいったんここへかえったが、すぐまたとび出したというんだな」 「はい、お師匠さまの急死をしらせると、すぐ奥へとびこんで、なにやらごそごそしておいででしたが、まもなく、ふろしき包みをもって出てこられて、お師匠さまのお召し物が血でよごれた。じぶんは着替えをもっていく。おまえたちはお亡骸《なきがら》をむかえる用意をしておくようにといいおいて……親分さん、これはいったい、どうしたことでございます」  うすくなった小鬢《こびん》をふるわせ、弥兵衛もお杣も、ことの意外におどろくばかり。 「いや、おれにもまだ、なんにもわかっちゃいねえんだ。よし、それじゃ、銀弥さんがごそごそやっていた奥というのを見せてもらおう」  弥兵衛とお杣は、当惑そうに顔見合わせていたが、それでもしぶしぶ、 「では、どうぞ、こちらへ……」  いま佐七が応対していたところは、信者の待合室ともいうべき部屋で、そこから廊下をつたっていくと、ひろい祈祷所があった。この祈祷所は、あとでみせてもらうことにして、それからさらに奥へすすむと、八畳と六畳のふた間つづきが離れになっている。 「大日坊さんは、この離れにねるのかえ」 「はい、奥の八畳で……」 「銀弥さんはどこでねるんだ」  これは辰の質問である。 「はい、この六畳で……」  八畳と六畳はふすまひとえだ。 「大日坊はんは、まいばん銀弥はんを抱いてねてたんとちがうのんか」 「さあ、そこまでは……」  弥兵衛とお杣が顔見合わせたところをみると、当たらずといえども遠からずらしい。六畳にはたんす鏡台などがすえてある。 「銀弥はこのたんすから、着替えをもっていったんだね」 「はい、ひきだしをひらく音がしてましたから」 「大日坊さんは信者もおおいときいた。さぞためこんでいるんだろうが、その金はどこにあるんだ」 「くわしいことは存じませんが、その袋戸だなじゃございませんか。金唐革の手文庫にはいっていたようで」  袋戸だなには、げんじゅうにかぎがかかっている。佐七がめくばせすると、辰が十手のさきをつっこんでこねまわすと、袋戸だなはなんなくひらいた。はたして、なかには手文庫がひとつ。ひらいてみると、約三百両という金が出てきた。  もし、銀弥が逃亡したとしても、金には手をつけずにいったのか、それとも……? 「この戸だなのかぎはだれが持っているんだえ」 「それはもちろん、お師匠さまで」 「銀弥ももっているんじゃねえか」 「とんでもございません」  お杣がつよく打ち消して、 「お師匠さまはそういうこと、とてもげんじゅうなかたでした。そこまで銀弥さんを信用してはいらっしゃらなかったようです」 「だけど、親分、さっき大日坊がくるしみだしたとき、介抱するようなまねをして……」 「そやそや、ここにはもっと仰山金があったんを、半分くすねていきよったんやおまへんか」  しかし、それは辰や豆六の思いすごしであることがあとでわかった。大日坊の掛け守りのなかから、膚身はなさずもっているふくろ戸だなのかぎが出てきた。 「豆六」 「へえ、へえ」 「てめえ、もういちど、七軒町へいってきてくれ。おそらく、銀弥はあっちへいっていめえが、いなきゃアすぐにこの祈祷所へひきかえしてこい。それから、辰」 「へえ、あっしの役どころは」 「いちおう、銀弥のゆくえを調べてみてくれ。板橋のほうへ走ったか、本郷のほうへひきかえしたか、あの器量だ、会ったらみんなおぼえてるだろう。だいたい見当がついたら、もういちど、ここへひきかえしてこい」 「おっと合点だ。だけど、親分」  と、弥兵衛夫婦にきこえぬように声をおとして、 「巳之さんはどうしたんでしょうねえ。ひょっとすると、銀弥のあとを追ったんじゃ……」 「いいから、いいから、そのことはあとまわしだ。ふたりともはやくいってこい」 「おっと合点や。ほんなら、兄い、いきまほか」  辰と豆六がとび出していったあとで、佐七は弥兵衛夫婦をふりかえった。 「じゃ、ひとつ、祈祷所をみせてもらおうか」  そのしゅんかん、弥兵衛とお杣がはっと顔を見合わせて、かすかに肩をふるわせるのを、佐七はあざわらうように見守っていた。  いったい、医術の進歩しない時代には、疫病が流行するとイチコロである。そういうときに幅をきかすのが加持祈祷で、たぶんに精神的なところがあるから、そこにいかさまのわりこむ余地がおおいわけだ。  いったい、加持とは、如来の大悲と、衆生の信心とをあらわすことばだそうで、行者の信心と如来の大悲とが、相感応したとき、行者の身のうえに、如来のふしぎな霊力があらわれてくるというのである。つまり、行者は衆生の代理人となって祈念をこらし、如来の大悲と相感応して、如来からさずかった霊力によって、衆生の苦患《くげん》を救うというのである。  つまり、これは一種の自己催眠であろう。行者がつよい信仰と祈念の結果、じぶんがまず強烈な自己催眠におちいり、それによって一般民衆に催眠術をかけるのだろう。  それだと、ちかごろの医療界においても、おいおい催眠術療法というのが認められているそうだから、それほど非科学的とはいえないかもしれないのだが、問題は行者のすべてが、はたして、それほどつよい信仰と祈念の結果、強烈な自己催眠におちいる能力をもっているかどうかということである。  すなわち、行者のすべてが、はたして行者たりうる資格をもっているかどうかということが問題なのである。その資格にかけている行者が、行者として、信者をあつめようとすれば、べつの力、あるいは魅力を、利用せざるをえないわけである。  その魅力にはいろいろあろう。容貌《ようぼう》、風采《ふうさい》の魅力、あるいは口弁のたくみさ、まあ、そのへんまでなら無難だが、それがたまたま肉体的魅力、もっとろこつにいえば性的魅力を発揮するようになると、ことがおだやかでない。  大日坊というのが、どういう種類の行者であったか、いま祈祷所をみせてほしいと佐七が切りだしたせつな、弥兵衛夫婦がみせた態度でも、だいたい想像がつこうというもの。  祈祷所は白木づくりで、四方を白木の板でかこまれており、廊下から祈祷所へはいる入り口なども、茶室のにじり口のような仕掛けになっている。茶室のにじり口は幅一尺九寸五分、高さ二尺二寸五分が定法になっているが、この祈祷所もにたりよったり、したがって、身をかがめなければはいれない。  なかは、十二畳じきくらいの広さになっており、正面にものものしい須弥壇《しゅみだん》がすえてあり、須弥壇のうえには、大日如来の像を中心に、さまざまな怪奇|妖異《ようい》の仏像がならべてあり、これだけでも、気のよわい善男善女は圧倒されるだろう。  須弥壇のまえには、畳二畳じきくらいの、まわりに朱塗りに金金具をあしらった勾欄《こうらん》をめぐらせた台座があり、そのうえにすわって大日坊が祈祷するのであろうか。すこしさがったところに信者の席がもうけてある。  四方どこにも窓のない部屋だから、これで護摩でもたけばもうもうたる煙で、ちょっとやそっとのお灯明や、おろうそくの光では、昼なお小暗いことだろう。  表をみれば神殿づくり、なかへはいれば密教仕立て、神仏|混淆《こんこう》の時代だからこれでよいのかもしれぬが、万事がこけおどかしにできていて、これだけでも大日坊なる修験者がどのていどの行者であったか、想像できるようである。 「それで、おまえさんが祈祷のあいだ、ここで立ち会っていたんだね」  いっしょにはいってきた弥兵衛夫婦のうち、お杣のほうをふりかえると、お杣はへどもどしながら、 「いえ、あの、わたしはいつもご祈祷のお支度をするだけで、それがすむと外へ出てしまいます」 「ふうむ。すると、あとはこの祈祷所に、大日坊さんと信者のふたりきりかえ」 「はい」 「ご祈祷はいったい、どのくらいかかるんだ」 「それは、長いかたもあれば、みじかくてすむかたもございます」 「長いのはどのくらいだ、おい、どのくらいかかると聞いてるんだ。大日坊はもう死んじまったんだ。おまえら、かかりあいになるのが怖ければ、なにもかも正直にいっちまえ」  佐七に一喝《いっかつ》されて、弥兵衛夫婦はふるえあがった。 「はい、長いかたで一刻《いっとき》(二時間)あまり……」 「ふうむ、一刻とは念のいったご祈祷だが、そういうごていねいなご祈祷をうけるのは、もちろん女だろうな」 「はい……」  お杣も弥兵衛もちぢみあがって、もう顔もあげられない。こういういかがわしい行者の使用人としては、あんがいひとのよさそうな夫婦である。  佐七は祈祷所のなかを見まわしたのち、 「おまえらは外へ出てろ。おれはもうすこし、この祈祷所を調べてみる」 「親分さん」  弥兵衛は羊のような目をあげて、哀願するように佐七を見る。 「いいってことよ。大日坊は死んじまったんだ。この祈祷所でなにが見つかっても、わるくたたいてほこりを出すようなまねはしねえ。ただし、おまえたちの出方しだいだがな」 「恐れいります。親分さんのおうわさは、かねてからうけたまわっております。ものの道理をわきまえたお慈悲ぶかいおかたとやら……」 「あっはっは、いやにおだてるな。まあ、いいから外へ出てろ」  弥兵衛夫婦を外へおいだし、佐七はもういちど祈祷所のなかを見まわした。どんな祈祷をするのかしらないが、男と女が一刻あまりもとじこもるには、この祈祷所は殺風景である。どこかにかくし部屋があるのではないか。  佐七はすぐその入り口をみつけた。須弥壇のうしろの板壁いちめんに、大日如来ご来迎《らいごう》の図がべったりと描かれているが、ものなれた佐七の目は、その絵のほんのささいな食いちがいも見のがさなかった。  佐七は須弥壇のうえから百日ろうそくをとってくると、もういちど、その食いちがいを点検した。それは床から方三尺におよんでいるが、えがかれた雲や蓮華《れんげ》や、仏の裳《もすそ》のひだの線に、ほんのわずかな食いちがいがあり、それはおそらく佐七のような、鋭い、ものなれた眼力のもちぬしでなければ、発見はむつかしかったであろう。  佐七はそのかくしとびらとおぼしい壁の一端を、そっと押してみたが、とびらはびくともしなかった。  よくよくみると、とびらの両端が床のところで、桟《さん》のようなものでとめてある。その桟を抜きとって、なにげなくつよく押すと、とつぜん方三尺の板壁が、その中心を軸として、バターンと回転してうらがえしになった。と、その裏面には、おもてとそっくりおなじ絵がかいてあり、それが周囲の絵と、ぴったり合うのである。 「野郎、やりゃアがったな」  佐七はこんどはゆっくり一端を押してみたが、すると、方三尺の板壁が中心を軸として回転をはじめ、やがて、壁と直角のところでぴたりととまった。  佐七はすばやくなかへすべりこむと、回転とびらをもとどおりにしめた。それから、百日ろうそくの灯をかかげて、うちがわの壁を点検したが、とたんにおおきく目をみはった。  うちがわの壁いちめんに描かれているのは、男女の秘戯百態であった。そこには、全裸にちかい男と女の、歓喜結合のあらゆるポーズが、壁いちめんにえがかれている。  しかし、さすがに、そこに描かれた男や女は、ふつう一般の浮世絵師のえがく秘戯図の主人公とちがっていて、ぜんぶ、仏のすがたに仮託してある。  ここが大日坊の狡猾《こうかつ》なところで、この密房へみちびかれた女たちは、これらの絵によって、一種荘厳な陶酔境におちいり、大日坊の毒手に身をまかせることになんの罪悪感ももたないばかりか、かえって神聖な奉仕感をもつのではないか。  こういう極彩色の絵が、窓ひとつない、ほかの三方の壁といわず、押し入れのふすまといわず、天井にまで、強烈な色でえがかれているのだから、女たちがひとたまりもなく大日坊の術中におちいったであろうことは想像される。  密房のひろさは四畳半くらい、佐七が極彩色のふすまをひらくと、押し入れのなかには、大名道具のような、けっこうな夜具がひとかさね。朱塗りに金泥《きんでい》で、これまた、秘戯図を蒔《ま》き絵にしたまくらがふたつ。これがいちばんだいじな商売道具だから、大日坊も金をかけたらしい。  押し入れのそばには、床の間というより、龕《がん》のようなくぼみがあり、そこに双身の歓喜天の像があり、相擁した男天と女天の結合した性器には、朱と金粉でろこつな彩色がほどこしてある。 「大日坊め、うまいときに死にゃアがった。生きていたらただではおかねえ」  その歓喜天像は、ほとんど等身大にちかく、木彫りに極彩色をほどこしたものだが、なにげなく指ではじいているうちに、女天の像の胎内がうつろになっているらしいことに気がついた。  その女天の像の胎内から出てきたのは、あらゆる種類の秘薬、媚薬《びゃく》、秘具、香料、練り物のたぐいで、これでみると大日坊は、女をいやがうえにも法悦境にみちびくためには、秘戯、秘術のかぎりをつくしたらしい。  佐七はなおも胎内のおくふかくまでさぐっていたが、そのうちに手にふれたのは、小册子のようなものである。佐七がとりだしてみると、半紙を半分に折って、器用に表装したもので、表紙に肉太の達筆で『女人奉加帳』。  佐七はどきりとひとみをすえた。  こういうかくし戸だなに秘蔵してある以上、これが世のつねの奉加帳でないことだけはたしかである。  佐七はいちまい、いちまいめくってみたが、そこには、寄進についた女の名前が数十名、ずらりとならんでいるのだが、それにはいちいち、何某妻、何某後家、何某娘と肩書きがついており、それでみると、そうとうご大身の旗本のご後室様ならまだしものこと、奥方の名前まであがっており、江戸の大店《おおだな》の後家や妻女や、娘の名前がずらりとならんでいた。  まったく、これを発見したのが佐七だからよかったようなものの、もし、これがほかの岡《おか》っ引《ぴ》きなら、江戸にどのようなスキャンダルがまきおこったかしれなかった。また、もしこれが悪質の人間にわたっていたら、あちこちに悲劇の犠牲者がでたことだろう。  三段目力士|岩錦《いわにしき》   ——どこで歯車が食いちがったのか 「弥兵衛、お杣、おまえたち、祈祷所のおくに妙な部屋があるのはしっていただろうな」  祈祷所から出てくると、弥兵衛とお杣は、ひかえの間で小さくなっていた。ふたりははっと顔見合わせたが、こういうときには女のほうが大胆である。 「親分さん、それはわたしどももしっていました。外から見てもわかります。しかし、わたしどもはいちども、そのお部屋をのぞいたことはございません」 「弥兵衛、ほんとうか」 「ほんとうでございます。のぞくのが怖かったのでございます」 「銀弥はしっているんだろうな。銀弥もときどきあの部屋へ、わかい娘をひっぱりこんでいたんだろうな」 「さあ……」  と、ふたりは顔見合わせて、 「わたしどものしってるかぎりでは、銀弥さまにはそのようなことはなかったように思います」 「なんだ、すると、銀弥はただおとりで、わかい娘はひきよせるが、ご祈祷をするのはもっぱら大日坊のほうか」 「銀弥さまは、まだご修行が浅うございますから……」 「ときに、大日坊がここへ引っ越してきたのは、一昨年の秋のことだというが、それまではどこにいたんだ」 「葛飾《かつしか》のほうでございます」  そういえば、『女人奉加帳』にも、葛飾の女の名前がそうとうみえている。 「だれの縁で、こちらへ引っ越してきたんだ」 「さあ、そこまでは……」  しっているのかいないのか、弥兵衛夫婦は、顔見合わせてことばをにごした。  しかし、佐七はこの夫婦を追及するまでもなく、だいたいの見当はついていた。『女人奉加帳』のはじめのほうに、お喜多という名がそうとうみえる。当時、お喜多は葛飾のほうにすんでいたらしい。 「葛飾、名主、庄司源左衛門《しょうじげんざえもん》、後家、喜多」  とあるのが、いまの佐々木茂右衛門の後添いお喜多であるかどうか、しらべてみればすぐわかることだ。 「ときに、おまえたちは、この祈祷所へ出入りをしていたお女中たちの名前をしっているだろうな」  弥兵衛夫婦はまたはっと、顔見合わせてうなだれた。ふたりの白髪頭がわなわなふるえた。 「しっているなら忘れてしまえ。いいか、ここに大日坊が、そのお女中たちの名を書きとめてある。このお女中たちの名が、おまえたちの口からもれたり、またおまえたちが、このお女中たちにねだりがましいことでもいったり、したりしたことがわかったら、そのときこそは、おまえたちのさいごだと思えよ」 「親分さん、わたしども夫婦は、それほど悪者ではございません」  弥兵衛が手をつくそばから、お杣がふしぎそうに佐七の顔をみて、 「しかし、親分さん、親分さんはこの一件を、どうしまつなさるおつもりで……?」 「大日坊が生きていればただではすまさねえ。底の底まであらってやる。しかし、あいつはもう死んでしまったんだ。いたずらにたたいて、ほこりを立てることはあるめえ」 「親分さん、しかし、それでは親分さんのお手柄が……」 「おい、お杣、おまえはおいらを、そんな手柄亡者と思っているのか」  お杣はあきれたように、まじまじと佐七の顔を見つめていたが、とつぜん、わっとその場に泣きふした。 「親分さん、ありがとうございます。このご恩は死んでも忘れません」  おそらく、この夫婦は戦々恐々、白刃をわたるような気で日を送っていたにちがいない。  お杣の泣きやむのを待って、佐七は鬼若のことを切りだしてみたが、鬼若が毒殺されて、うらの庭に埋められていると聞いたときのふたりのおどろきようといったらなかった。かれらはしんじつ、なにも知らなかったらしく、鬼若は綱をくいきって逃げだしたのだとばかり思っていたらしかった。 「それについて、おまえたちに聞きてえのだが、鬼若のせわがかりだった岩松という男は、その後どうなったかしらねえか」  佐七の考えでは、その岩松もいっぷく盛られて、どっか庭のすみに埋められているのではないかと思っていたのだが、案に相違して、 「その岩松なら、四、五日まえに、ここへ遊びにまいりましたが……」  聞いてびっくり、 「それじゃ、岩松は生きているのか」 「それじゃ、親分さんは、岩松つぁんも殺されたと……?」  お杣と弥兵衛は、あらためてあおくなった。 「いや、どうやらそれはおれの思いすごしだったようだが、そして、岩松はいまなにをしているんだ」 「柳橋の舟宿、千川といううちで、船頭をしているそうでございます」  弥兵衛とお杣が語るところによるとこうである。  辰と豆六も岩松のことを相撲あがりといっていたが、当時のシコ名を岩錦《いわにしき》といって、三段目までいった相撲取りだそうだが、その岩錦なら佐七もおぼえていた。  うわ背はそれほどでもないが、筋骨隆々、文字どおり、巌《いわお》のようなからだをしていた。容貌《ようぼう》も、取り口も、人柄も鈍重そのもので、はなばなしい人気はなかったが、一部ではそうとう有望視されていたのが、からだの故障で廃業したということを、佐七もかねてからきいていた。 「ああ、あの岩錦だったのか」 「はい、お師匠さんはお相撲がすきで、相撲取り時代から岩松つぁんがごひいきでしたが、相撲をよさなければならなくなったとき、ちょうど鬼若を手にいれなすったので、せわがかりとしてお引き取りなすったので……」 「それが、鬼若がいなくなったので、お払いばこになったのか」 「はい」 「しかし、舟宿の船頭とは……」 「いいえ、岩松つぁんは、相撲取りになるまえは、房州の勝浦で漁師をしていたそうでございます。ですから、舟をこぐのはお手のもの。それで、相撲取り時代のごひいきが、千川さんへおせわなすったのだそうでございます」 「それで、四、五日まえにきたというのは?」 「いいえ、あたらしい仕事にもなれ、元気でくらしているからと、お師匠さんにあいさつにまいりましたので……」 「親分さん、岩松つぁんならほんとうにまっ正直な、よいひとでございます」  ちょうどそこへ、豆六がかえってきた。豆六の報告によると、案の定、銀弥は七軒町のほうへいっていないという。 「ひょっとすると、あっちのほうへずらかったんやないかおもて、みちみち聞いてきましたが、だれも銀弥のすがたを見たもんはおらんようだす」  いってるところへ、きんちゃくの辰もかえってきた。  辰の報告によると、板橋、本郷両方面で、聞き込みをやってみたが、いっこう収穫がなかったという。 「あれだけの器量ですからね、会えば忘れるはずはねえ。夜とはいえ、この月夜ですからね。だから、ひょっとすると、駒込《こまごめ》のほうへ抜けたんじゃねえかと思うんです」 「あの器量だっさかいにな、逃げおおせるちゅうわけにはいきまへんやろ」 「親分、それより巳之さんのことですがね」  と、辰は声をひそめて、 「さっきちょっと、加賀屋の寮をのぞいてみたんですが、巳之さん、そっちへかえっていないんです。それで、もしや友造さんのところじゃないかと、そっちのほうへもまわってみたんですが、やっぱりだめです。そこで、ついでのことに、友造さんを締めあげてきました」 「友造さん、なにかどろを吐いたかえ」 「へえ、吐かせましたよ。友造さんがはしごからおちたのは、やっぱり大日坊が鬼若を毒害するところをみたからなんですが、たかが犬一匹、毒害されるところを見たからって、なにをあんなにおびえているのかと、そこんところを締めあげたんですが、やっと、そのわけがわかりましたよ」 「なにか、わけがあったのか」 「いえね、あのとりかぶとの根が猛毒だってこと、それから毒のつくりかたなど、ついなにげなく友造さんが大日坊におしえたんだそうです。それであんなにおびえてるんです」  なるほど、それではあいてがたかが犬一匹でも、あの小心者の友造が恐れおののいたのもむりはない。 「ところで、辰、友造さんが鬼若の毒害されるのを見たとき、その場にいたのは大日坊ひとりかえ。銀弥もそこにいたんじゃねえか」 「いえ、親分、あっしもそこんところを突っ込んでたずねてみたんです。そしたら、友造さんのいうのに、その日、松の木のうえから見ていたら、まず、この夫婦がでかけるのが見えたそうです。それからしばらくすると、こんどは、銀弥が鎌髭《かまひげ》やっこの岩松をつれて出かけるのがみえたそうです」 「なるほど、それで……?」 「ところが、それからしばらくして、犬のうめき声がきこえたので、なにげなく祈祷所の庭をみると、綱につながれた鬼若がのたうちまわっているそばに、法眼袴《ほうげんばかま》の大日坊がつくばって、鬼若のもがき苦しむのをみてるんだそうです。そのうちに、鬼若がガーッと血を吐くのをみて、とたんに友造さん、とりかぶとのことを思い出し、はしごから足ふみすべらせて、ステンコロリと落ちたんだそうで」  この話からさっすると、すべては大日坊の胸三寸からでているらしいのに、その大日坊が毒害されたとなると、どこでどう運命の歯車が食いちがってきたのだろうか。  かげま寺安養寺   ——裏門はまっぴらごめんでさあね  豆六の予想にはんして、銀弥のゆくえは七日たっても、十日たってもわからなかった。  豆六の予言したとおり、あの器量だから、とうてい逃げおおせるわけにはいくまいと、たかをくくったのが、佐七のあやまりだった。天にのぼったか、地にもぐったのか、いまのところ、銀弥は完全にすがたをくらまして、どこからも消息をつかめなかった。  大日坊が殺された晩、佐七はほとんど眠らなかった。染井と七軒町とを、なんどか往復してみたが、銀弥のゆくえについては、なんの手がかりもつかめなかった。  それにしても、巳之介はどうしたのかと、かえりに本郷森川宿の安養寺へ立ちよったのは、もうかれこれ夜のひきあげどき、明け方の六つ(六時)ごろのことだった。安養寺の名前は、おはまにきいてきたのである。  おはまの話によると、この安養寺というのは、二、三年まえまでは無住の荒れ寺だったが、おととしごろ、どこからきたのか、頑哲坊《がんてつぼう》という坊主が住みついたのはよいが、本堂はばくち場、庫裏や納所には、あやしげな色若衆が出入りして、さながら陰間宿もどうぜん、そういう連中とつきおうていて、巳之介もすえしじゅう、ろくなことはございますまいと、おはまはもうあきらめがおだった。  寺はしかし、思ったよりこぎれいだった。小さな寺だが、佐七はもっと荒れ寺の破《や》れ寺を想像していたのに、安養寺とかいた扁額《へんがく》のあがった山門には、べつにペンペン草もはえておらず、境内もよく掃除がゆきとどいている。  佐七が辰と豆六をひきつれて、山門からなかへはいっていくと、本堂のほうから木魚の音がきこえてきた。破戒坊主の頑哲坊も、朝の勤行《ごんぎょう》はやるらしい。  佐七はちょっと感心したが、すぐつぎのしゅんかん、佐七の感心をうらぎるような事態がそこに起こった。  庫裏のほうから出てきたのは、あきらかに朝帰りとおぼしい男、四十前後の中年男で、どこか小店のだんなというふうなのが、いま出てきた庫裏の窓をふりかえって、なにかふたことみことささやいていた。  窓から顔をだしているのは、あきらかに陰間的色若衆、若衆髷《わかしゅうまげ》ががっくりくずれて、おしろいがところまだらにはげているのは、夜をてっしての男の愛撫《あいぶ》のなごりだろう。  中年の嫖客《ひょうかく》は、色若衆になにか注意をされたとみえて、こちらをふりかえると、ぎょっとしたように立ちすくんだ。それからあわてて顔をそむけると、身をひるがえして、中門から外へとびだしていった。  色若衆もバッタリなかから障子をしめた。 「畜生!」  辰はきたないものでも吐きすてるように、するどく舌を鳴らしている。 「親分、これやと、おはまはんのいやはったこと、やっぱりほんまのようだんな」 「世のなかは百鬼夜行というが、辰、豆六、おまえら、この手だけにはひっかかるな」 「とんでもねえ。こちとら裏門はまっぴらごめんだ。攻め入るんなら堂々と、表門から攻め込みまさあ」  辰め、妙なところで威張っている。 「辰、巳之さんの住んでるのは、もと寺男のいた家だとかいってたな」 「親分、あれやおまへんか」  豆六の指さすところをみると、本堂のうしろから、湯灌場《ゆかんば》らしきものがのぞいている。  江戸時代では、家持ちでないかぎり、民家で湯灌をすることを禁じられていたので、どんな小さな寺でも湯灌をする小屋をもっており、寺男のすむ小屋は、湯灌場につづいているのがふつうである。  本堂をまわっていくと、はたして、うらの墓地に接したところに湯灌場があり、湯灌場のとなりに寺男の小屋がある。破《や》れ廂《ひさし》のしたにはまったすすけた腰高障子のまえに立って、 「ちょっとお尋ねいたします。植木職の巳之さん、巳之介さんは、こちらにおいででございましょうか」  辰が神妙におとなうと、障子のなかのおくのほうで、ちょっと狼狽《ろうばい》したようなけはいがきこえたが、よほどしばらくたって、 「巳之介はおれだが、そういうおまえさんはえ」 「なアんだ、巳之さん、こっちへかえっておいでなすったのか。あっしですよう。お玉が池の辰ですよ。親分もきておいでなさる」 「え? お玉が池の親分が……ちょ、ちょっと待っておくんなせえ。いまそこを開けますから……」  それから、なにやらヒソヒソささやく声がきこえていたが、やがて土間へおりてくるけはいがして、なかから心張り棒をはずし、ガタゴトと立てつけのわるい腰高障子をひらいたのは巳之介だが、目が異様に血走り、ほおがまっ赤に上気しているのは、ただ寝ていただけではあるまい。  はだかでねていたところを、あわててふんどしをしめ、浴衣をうえからひっかけただけらしいことは、帯もしめずに、片手でまえをおさえていることでもうかがわれる。  巳之介はばつが悪そうに、 「親分、どうしたんですよう、朝っぱらから……」 「巳之さん、おまえこそどうしたんだ。あいさつもなしに姿を消すとは、ひどいじゃないか」 「へっへっへ、すみません。あれから、ひさご屋で一杯やってたところが、やつが迎えにきたもんですから」  と、うしろのほうをふりかえり、 「万菊、お玉が池の親分さんだ。ちょっと、そこからごあいさつ申せ」  佐七をはじめ辰と豆六が腰高障子から首をつっこみ、なかをのぞくと、障子のなかは土間になっており、墓掘り道具やなんかが壁にかかっている。その土間の右側にふた間つづいているようだが、あいだにふすまも障子もはめてないので、おくのおくまで見通しである。  ただ、とっつきの部屋と、おくの部屋とのさかいに、切りはりだらけのついたてがおいてあり、そのついたてのむこうにも、だれか寝ているらしい。うつぶせになった若衆髷が、ついたてのかげからのぞいており、それを客がうしろから抱いているらしく、ついたてのはしからのぞいている布団がおおきく盛りあがり、その布団もうつぶせになった若衆髷もはげしく振動し、あやしげな息遣いや、うめき声が、おもてまで筒抜けである。  後朝《きぬぎぬ》のわかれを惜しんでいるのかもしれないが、恥も外聞もないとはこのことだろう。  土間のとっつきの上がりかまちの三畳には、うすいせんべい布団にまくらがふたつ、さくら紙が散乱していて、布団のうえには長襦袢《ながじゅばん》いちまいの万菊が、女のようにべったりと、よこずわりにすわっている。  赤い腰巻きひとつでねていたところを、あわてて長襦袢をひっかけたらしく、まだ伊達巻《だてま》きもしめきらないところを、巳之介に声をかけられたものだから、まえはだけのまま、そこへ両手をついて会釈をしたが、とたんに若衆髷ががっくりまえへかたむいたのは、巳之介の抱擁のはげしさを物語るものか。  これまた、満面朱をそそいだように紅潮していて、ひとみがうるんだようにかがやいているのは、辰に声をかけられたとき、巳之介となにをしていたか想像されるようである。  辰と豆六はめずらしそうに、おくのおくをのぞいていたが、佐七はさすがに首をひっこめ、 「巳之さん、ここじゃ話もできめえ。ちょっと外へ顔をかしてくんねえな」 「親分、ちょっと待っておくんなせえ。いま、帯をしめてまいりますから」  巳之介がおくへひっこんだあと、佐七はなにげなく、壁にかかった墓掘り道具をながめていたが、ふいに、おやとまゆをひそめた。壁にかかった道具のうち、鍬《くわ》のひとつが、ごくさいきん洗ったように、じっとりとぬれているのである。  こんな寺でも、たまには、墓を掘ることがあるのかなとおもっているところへ、巳之介が三尺帯をまきながら土間から出てきた。 「親分、お待たせ」 「辰、豆六、さあ、いこう。てめえら、いつまでのぞいているんだ」 「えっへっへっへ!」  辰と豆六がポッテリと上気した顔でふりかえったとき、おくのほうから、傍若無人の咆哮《ほうこう》がきこえてきた。咆哮はしばらくつづいていたが、それがとぎれると、あとはシーンと、墓場のようなしずけさである。  四人はふっと顔見合わせたが、さすがに巳之介は、きまりわるそうにあかくなっている。 「巳之さん、おくにねている若衆さんは、姫鶴《ひめづる》さんかえ」 「いいえ、姫鶴じゃありません。やつはここにゃいねえんで。親分、どうぞこちらへ」  佐七はそれ以上、追求しようとはしなかった。このおさな友達の弱点にふれるにしのびなかったのである。  巳之介が案内したのは、すぐとなりの湯灌場だったが、湯灌場へはいるとき、ふりかえると、庫裏のほうから、またひとりの男が出てきた。こんどは、職人の親方といったふうな男だったが、としごろは五十前後、鬢《びん》にも髷《まげ》にも白髪がまじっている。  親方ふうの男は、さっきの若衆から、佐七のことをきいているにちがいない。ジロリとこちらをふりかえったが、べつにわるびれたふうもなく、ここからはみえない庫裏の入り口にむかって手をふると、ニヤニヤしながら、山門から出ていった。  本堂のほうではあいかわらず、木魚の音がポクポクポク。まるで佐七をあざわらっているようである。 「親分、あっしに御用とは?」 「巳之さん、おまえ、ゆうべ、銀弥のすがたをみなかったかえ」 「銀弥がどうかしたんですか」  いぶかしそうに佐七の顔を見る。それが巳之介の本心かどうかわからなかった。  佐七がてみじかにことのいきさつを語ってきかせると、巳之介は目をまるくして、 「親分、それじゃ、銀弥が大日坊や佐々木の後添いに毒を盛ったとおっしゃるんで」 「いや、そこんところがはっきりしねえんだが、いずれにしても、姿をくらましたのがおかしい。巳之さん、おまえが祈祷所で立ちぎきしたとき、かえってきたのは銀弥だとは気がつかなかったのかえ」 「いいえ、あっしア銀弥の声はききませんでしたね。あそこの用人と女房が、佐々木の屋敷でだれかがいっぷく盛られたと声高に話しているのをきいて、さっそく親分にご注進におよんだんです」 「あれから、おまえはどうしたんだ。おいらが七軒町へかけつけていったあと……?」 「あっしもすぐに、祈祷所をとび出しましたよ。いや、そうじゃなかったかな」 「そうじゃなかったかなというと……?」 「いえね。なんぼなんでも、鬼若をあのままにしておいちゃかわいそうです。だから、もういちど穴のなかに埋めてやったんですよ。からだをかかえて、穴へつっこもうとすると、鬼若のやつ、鼻と口から、ゲロッと、きたないものを吐きゃアがった。おかげで、あっしア手も脚も血まみれで、いや、その気味の悪いっちゃありませんや」 「なるほど、それで……」 「さいわい、そばに泉水がございましたから、それで手脚を洗ってからとび出したんですが、どうも気色がわるくてしようがありませんや。そこで、ひさご屋……このあいだ、辰つぁんや豆さんとごいっしょしたうちですね、そこへいって一杯やってたんです。いずれ親分ももういちどあの祈祷所へかえっておいでなさるにちがいねえから、いいまを見はからって、のぞいてみようと思っているところへ、やつが迎えにきやァがったんです」 「やつとは万菊さんのことか」 「へえ。あっしアやつにかかると、から意気地がねえんで。やつに鼻声であまえられると、すぐ骨抜きにされちまうんで、ついフラフラと、こっちへかえってしまったんで。いや、おのろけをいってすみませんが、なんなら、やつにおききなすって」 「それじゃ、巳之さん、おまえさんはゆうべ、銀弥のすがたは見なかったんだな」 「へえ、いちども。しかし、あのしおらしそうな顔をした若衆さんが、そんなだいそれたまねをしようたァ思われませんが、親分、それにゃアなにかまちがいが……」  うすぐらい、湯灌場のなかでまじまじと佐七の顔を、見まもる巳之介の目の色に、うそがあろうとは思われなかった。  それからまもなく、お玉が池へかえった三人は、どろのようにぐっすり眠りこけたが、その佐七がお粂によびおこされたのは、昼ももうよほど過ぎて、八つ半(三時)ごろのことだった。 「ちょっと、おまえさん、起きてくださいよ。岩松さんというひとが、おまえさんに会いたいといって、おみえになってますよ」 「なに、岩松……?」  佐七はがばと寝床のうえに起きなおった。  お粂の声がきこえたとみえ、二階から辰と豆六もおりてくる。  あってみて、佐七は、岩錦時代の岩松を思い出した。  そのじぶんからみると、肉は落ちているが、あつい胸板、ひろい肩幅、猪首《いくび》が肩のなかにめりこみそうで、あいかわらず巌《いわお》のようなからだをしている。  色あくまでも浅黒く、胸毛のこいのが、浮気性の年増に人気があった。  うわぜいは五尺六寸くらいだが、日本人の平均身長のひくかったその時代では、五尺六寸といえば大男である。  としは二十二、三だろう。  いまでは、相撲取り時代とちがって、月代《さかやき》をそり、千川と背中におおきく染めぬいた印半纏《しるしばんてん》、小山のようなひざをきゅうくつそうにきちんとそろえ、けさはやく、染井の祈祷所から使いがきたので、いってみておどろいた。それについて、わたしになにかお聞きになりたいことがあるときいたので、こうしてやってまいりましたということを、おもい口で訥々《とつとつ》として語った。  お杣もいったとおり、いかにも朴訥《ぼくとつ》そうな人柄である。 「いや、それはよくきておくんなすった。ときに、銀弥さんは祈祷所へかえっていたかね」 「いえ、それがまだのようで……」  不安そうに佐七の顔をみる目は象のようにほそく、肉のもりあがった両のほっぺた、団子のようにちんまりとした鼻、金太郎さんのような童顔が、鈍重なうちにもあいきょうがある。 「おまえさん、銀弥のゆきさきについて、なにか心当たりはねえか」 「それが、いっこう……」  岩松はほそい目をふせた。 「岩松さん、銀弥にはいろいろ女出入りがあったんだろうね」  そばからひざをのり出したのは辰である。 「さあ、あっしにはよくわかりませんが……」 「七軒町の佐々木の娘、お蝶《ちょう》はどうやねん。銀弥にぞっこんほれこんで、やいのやいのいうとったちゅう話やが……」 「さあ、そういうことは、とんとわかりません。あっしはただ、鬼若のせわがかりでしたから……」 「そうそう、その鬼若が毒害されたということを、おまえさん、しってたかえ」 「いえ、さっきご用人さんにきいて、びっくりしてしまいまして……なんでまた、そんなむごいことをしたものかと……」 「鬼若がいなくなったので、おまえさんはお払いばこになったんだね」 「へえ。それで、とほうにくれまして、以前……相撲取りじぶんにごひいきになった、蔵前の和泉屋《いずみや》のだんなにご相談にあがったところが、舟がこげるというところから、いまのところへおせわくださいましたので……」  おもい口で、一句一句、とぎれとぎれに語るところは、こちらをいらいらさせるようだが、それがこの男のくせなのだろう。団子のような鼻の頭に、どういうわけか、汗をかいている。 「それじゃ、おまえさんは、銀弥をかくまいそうな女に心当たりがねえというんだな」 「へえ、いっこうに……」  岩松はちらと、うわめづかいに佐七をみたが、すぐまた、その目をふせてしまった。これじゃまるで、のれんに腕押しもどうようで、取りとめもないことおびただしい。  こうして、銀弥の消息はまったくたえて、この章のはじめにもいったとおり、七日たっても、十日たっても、そのゆくえはわからなかった。  ところが、銀弥が消息をたってからちょうど半月、九月二十八日の朝のことである。外から、糸の切れたやっこ凧《だこ》よろしく、キリキリ舞いをしながら、とびこんできた辰と豆六。 「親分、たいへんだ、たいへんだ。銀弥のいどころがわかりました」 「なに、銀弥のいどころがわかったと……?」 「わかったことはわかりましたが、親分、それが首無し死体になって……」 「染井の古井戸の底から見つかったそうだす」  無惨絵首無し死体   ——江戸一番の海坊主の親分さんへ  江戸時代の九月二十八日といえば、現今の暦でいえば、もう十月のおわりか、十一月のはじめである。染井のあたりは、もう紅葉の色もあせかけていた。  染井の祈祷所から、板橋街道へぬけるとちゅうの、さびしい森かげに、古びた一宇の祠《ほこら》がある。こわれかかったきつね格子のうえには、『染井権現』と、かろうじて読める扁額《へんがく》があがっているが、むろん堂主とてはなく、荒れるにまかされている。  この権現の境内に、ひとから忘れられた古井戸があるが、銀弥の首無し死体は、その古井戸から発見されたのである。  辰と豆六をひきつれた人形佐七が、とるものもとりあえず駆けつけると、おおぜいむらがった野次馬のなかから、 「きたな、きたな、お玉が池からどぶねずみが三匹、ウロチョロはいだしてきやアがったな」  と、いきなり、毒舌をあびせかけられ、ぎょっとした三人がむこうを見ると、野次馬のなかから歯をむき出し、こちらへむかってせせら笑っているのは、浅草の鳥越にとぐろをまく岡《おか》っ引《ぴ》きで、その名を茂平次というのだが、色がくろくて、大あばた、おびんずる様みたいな顔をしているところから、ひとよんで海坊主の茂平次。あんまりひとに好かれる男ではない。 「おや、鳥越の兄い、おまえさん、どうしてここへ……?」 「どうしてもヘチマもねえ。この死骸《しげえ》はおれが見つけて、井戸のなかから引きあげたのよ」  みると、井戸端にござがしいてあり、そのござのしたに銀弥の死体があるらしい。 「えっ? 鳥越の親分、おまえさん、どうしてこの井戸のなかに死骸があることをしってたんです」 「辰、よっく聞け、おれさまぐれえの捕り物名人になると、いろいろとひいきがいるのよ。そのごひいきが、おれにしらせてくだすったんだ。佐七、これを読んでみろ」  海坊主の茂平次が、鼻たかだかとふところからとりだしたのは一通の封じぶみ。みると、粗悪な巻き紙に金くぎ流で、つぎのごとく書いてある。 [#ここから2字下げ] 海坊主の親分さんに一筆啓上、大日坊のお小姓、銀弥のゆくえをしりたくば、染井権現の境内にある古井戸の底をさぐりそうらえ。  うの目たかの目より  江戸一番の捕り物名人   海坊主の親分さんへ [#ここで字下げ終わり] 「チェッ、江戸一番の捕り物名人とは、聞いてあきれらあ」 「このうの目たかの目というやつも、どえらいおベンチャラをいうやないか」 「へっへ、なんとでもいえ。佐七、はばかりながら、この一件はおれがもらったぜ。もう下手人の当たりもついているわな」 「兄い、してして、その下手人とは……?」 「てめえ、それを聞いてどうする。おれを出しぬいて手柄にする気だろう。てめえというやつは、いっつもそれだ。おれがおひとがいいもんだから、ついその手にのって、ぺらぺらしゃべると、てめえがさきまわりしやアがってよ、おれの手柄をよこどりしやアがる。みんな聞け。この佐七というやつはな、手柄どろぼう、手柄ぬすっとだ。それでいて捕り物名人もすさまじい。ほんとの名人はこのおれよ。なにより証拠はその手紙。佐七、その手紙、こっちへよこせ」  生まれてはじめて捕り物名人の尊称をたてまつられた海坊主の茂平次親分、サツマ芋みたいな鼻たかだかと、死体もなにもおっぽりだして、いずくともなく立ち去った。  おそらく、あの手紙を表装して、額にかかげておくつもりだろう。  佐七はそのあとで、そっとござをめくってみたが、とたんにつめたい戦慄《せんりつ》が背筋をつらぬいて走るのをおぼえた。辰と豆六もゾーッとしたように息をのんだ。  のこぎりででもひき切ったにちがいない。のどのところから首を切りおとされた死体は、むざんな切り口をのぞかせていて、手脚をかたく大の字にシャチコ張らせている。  銀弥は首を切りおとされるまえ、胸をえぐられたにちがいない。血に染まった着物のうえから、左の胸にかけてふかい突き傷がある。  殺されたのが失踪《しっそう》した晩だとすると、きょうでちょうど半月、死体が腐乱しているのもむりはない。おもてもむけられないような異臭が、プーンと鼻をつくのである。 「親分さん」  うしろから声をかけられて、佐七がふりかえると、大日坊の用人弥兵衛が、鬢《びん》の毛をふるわせながら立っていた。 「おお、弥兵衛か。これゃ銀弥の死体にちがいねえか」 「さあ……」  弥兵衛は顔をしかめて、 「首がないのでなんともいえませんが、衣装はあの晩銀弥どのの着ていたものにちがいございませぬ」  その衣装には佐七も見おぼえがあった。水あさぎの中振りそで、露芝に秋の七草をあしらって、袴《はかま》は紫がかったあらい紗綾形《さやがた》染め、いつか佐七が見参したとき、銀弥のきていた衣装である。佐七はその衣装と胸の突き傷とを調べていた。 「親分、あの晩殺されて、ここへ投げ込まれたのだとすると、これゃアいくら探したってわかりっこねえのはあたりまえでさあ」 「これにしても、なんで首をもっていきよったんだっしゃろ。銀弥のやつ、敵持ちだったんだっしゃろか」  衣装と傷を調べおわった佐七は立ちあがると、 「豆六、そこよ、そこがおいらにもわからねえ。あの若さで敵持ちとはうなずけぬ。辰、豆六、いいからはだかにしてしまえ」 「へえ」  辰と豆六は顔見合わせたが、そこが御用聞きのつらさである。ふたりは手ぬぐいで鼻をおおうと、気味悪そうにぬがせにかかる。  袴をとり、着物をぬがせると、ふんどしも腰巻きもしておらず、男のものがまる出しである。佐七はまゆをひそめながらも、子細にからだをあらためた。 「親分、銀弥はやっぱり大日坊に抱かれてかわいがられていたんですぜ。色若衆の特色がハッキリしてまさあ」 「ほんまに、巳之さんにこれを見せたら、さぞくやしがるこってっしゃろ」 「弥兵衛」  と、佐七はそばをふりかえり、 「おまえさん、銀弥のからだに、なにか目印になるような特徴のあったのをしらねえか。あざだとか、ほくろだとか……」 「さあ、わたしは銀弥どののはだかになったところを見たことがございませんから」  弥兵衛はろくすっぽ死体をみる勇気さえなかった。  佐七はもういちど、首なし死体の手脚をしらべたが、ふと妙なことに気がついた。右手の親指が、まむしの頭のようにいやにひらたくなっているのと、右腕のひじがタコのようにかたくなっているのに気がついた。 「辰、豆六、もういいから、ござをかけろ」  佐七はそれから弥兵衛をふりかえると、 「鳥越の親分はさっき、下手人がわかったようにいっていたが、それはいったいだれのことだえ」 「はい、あの、それはかようでございます」  銀弥の死骸《しがい》がみつかったと聞いて、弥兵衛がここへかけつけてくるとまもなく、七軒町の佐々木の屋敷からも、お蝶と万五郎がかけつけてきた。むごたらしい銀弥の死体をみると、お蝶はもう半狂乱のていだったが、そのうちに、銀弥を殺したのは万五郎だといい出した。万五郎が、銀弥とじぶんの仲をやきもちやいて殺したのだといい出した。 「それで、万五郎さんはなんといってるんだえ」 「あのひとは、なんともおっしゃいません。ただ迷惑そうにお蝶さんをなだめておいでなさいました」 「それを、海坊主のやつが聞きゃアがったんだな」 「はい、それはもう、すぐそばにおいででしたから」 「親分、こらあかん。海坊主のやつに、まんまと先を越されたらしい」 「よし、辰、豆六、佐々木の屋敷にいってみよう」  だが、佐七が駆けつけたときはおそかった。佐々木の屋敷の通用門から出てきたのは、海坊主の茂平次である。みると、万五郎に腰なわうって、意気揚々となわじりをとっている。 「あっ、兄い、いけねえ。万五郎さんにおなわをうつのは、まだ早すぎるんじゃねえか」 「なんだ、なんだ、佐七、またおいらの手柄に水をさす気か。へん、そねめ、そねめ。辰、豆六、てめえら、いい親分をもってしあわせだなあ、うわっはっは、万五郎、キリキリうせやアがれ」  海坊主の茂平次は得意満面、万五郎のなわじりとってひきあげていく。  契り結びしお蝶銀弥   ——銀弥さんに袴《はかま》をぬいでいただいて 「お蝶さん、おまえさんはほんとうに、万五郎さんが銀弥を殺したと思ってるんですかえ」  それからまもなく、お蝶に面会をもとめた佐七は、まるで妹でも諭すような口ぶりだった。しかし、恋に狂った十六娘は、銀弥をうしなった悲しみから、いちずに怒りと憎しみを万五郎にむけて爆発させているのである。 「そうよ、そうよ、そうですとも。銀弥さまを殺したのは、万五郎さんにきまっています。万五郎さんは、まえから銀弥さまを憎んでいたんです。だから、あんなにむごたらしゅう手にかけて……」  お蝶はまたあらためて、わっとその場に泣き伏した。 「しかし、お蝶さん、なんで万五郎さんはそれほど銀弥さんを憎んでいたんですか」 「それは……それは……わたしが銀弥さまをお慕い申し上げておりましたから」 「なるほど、そして、そのことを銀弥さんはしっていましたか」 「それは、それは、もちろん……わたしは銀弥さまと、たったいちどでございましたけれど、契りをむすんで……」  お蝶はせぐりあげながらも、かわいい耳たぶまでまっ赤に染めた。十六娘の全身が、火がついたようにあかくなっている。 「えっ。それじゃ、おまえさんは銀弥さんといっしょに寝たことがあるというんですか」 「はい……たったいちどですけれど……」 「それはどこで……? あの祈祷所のなかでで?」 「いいえ、そうではございません。このうちの離れ座敷でございました。あれはお彼岸のすこしまえでした。銀弥さまはただひとりで、大日坊さんのお使いにみえられました。そのとき、お父さまも、万五郎さんもお留守でした。それで、ふたり差しむかいでお話をしているうちに、あたしのほうからお願いして、袴《はかま》をぬいでいただいて……」  お蝶の声は消えもいりそうである。佐七はあきれたようにその顔を見まもりながら、 「それじゃ、銀弥さんは男らしく、おまえさんをうえからしっかり抱きしめて、膚と膚とをすりよせて、おまえさんをさんざんうれしがらせたあげく、泣かせてしまったというんですかえ」 「は、はい……」  まっ赤にそまったお蝶の首筋を見まもりながら、辰と豆六も顔見合わせている。  お蝶はやがて、涙にうるんだ目をあげると、 「あたしはけっして、いたずらごとでそうなったのではございません。あたしは銀弥さまに、力いっぱい抱いていただき、身をまかせて、女のすべてをささげました。そのかわり、銀弥さまに婿になっていただき、佐々木のうちをついでいただくつもりでございました。だから、万五郎さんがそれを憎んで……」  じゃまになる茂右衛門夫婦や、大日坊を毒害しようとしたばかりか、銀弥もむごたらしゅう殺してしまったにちがいないと、十六娘のお蝶は主張してゆずらないのである。 「なるほど、親分、これゃお蝶のいうとおりですぜ。お蝶と銀弥ができちまっていたとしたら、万五郎のやつが非常手段に出やがったのもむりはねえ。畜生ッ、それじゃ、海坊主のあばたづらにしてやられたか」 「そや、そや、こら兄いのいうとおりや。じゃまになるやつをみんな殺してしもたばかりか、銀弥もああして消してしまえば、去るもの日々にうとしや。そのうち、手込めにでもしてお蝶をものにし、佐々木のうちを乗っ取る気やったんや。親分、あんたがボヤボヤしてはったさかい、海坊主のやつに手柄をとられてしもたやおまへんか」  それからまもなく、佐々木の屋敷を出た辰と豆六、大ボヤキである。  佐々木のあるじ、茂右衛門には、ついに会えなかった。茂右衛門は十三夜の騒動以来、とかく健康がすぐれず、床についたきりだというのだが、それだって、万五郎がなにか細工をしているにちがいないと、辰や豆六は主張するのである。  佐七はふたりのぐちを聞きながして、黙々として歩いていたが、あまりふたりが口うるさいので、ふと立ちどまると、 「それじゃ、辰、おめえにきくがな、万五郎が銀弥を殺したとして、どうして首を切りとっていったんだ」 「それゃ、かわいい女をおもちゃにしたにっくき男、このつらで女をだましゃアがったかと、首切りとってその顔を、一寸きざみ五分だめし、切りきざみやアがったにちがいねえ」 「じゃ、こんどは豆六にきくがな。だれが鳥越の兄いのところへ、あんな手紙をよこしたんだ。まさか、万五郎だというんじゃあるめえな」 「そら、その、なんだすがな。海坊主もいうてたとおり、海坊主のひいきが……なるほど、こら、ちょっとけったいだんな」 「それより、辰、豆六、おいらにちょっと考えがある。ふたりとも耳をかせ」  ふたりの耳にかわるがわるなにかひそひそささやくと、辰と豆六はおどろき顔に、 「えっ、それじゃ、あっしはあの岩松を……?」 「そうよ。このあいだお玉が池へやってきたとき、岩松のやつ、鼻の頭にいっぱい汗をかいていやアがった。あいつなにか、銀弥のことについてしっていやアがるにちがいねえ。あいてにさとられぬように、当分あいつを見張っていろ」 「それから、親分、わての役回りは、姫鶴のいどころをつきとめることだすが、姫鶴がこの一件に関係がおまんのんか」 「なんでもいいからいってこい。だが、くれぐれも、だれにもこの探索をさとられるんじゃねえぞ」 「おっと、がってんだ」  とちゅうで辰や豆六とわかれた佐七は、道順だから安養寺へよってみた。  安養寺にはだれもいなかった。ここにたむろする色若衆たちも、ここに住んでいるわけではなく、昼間はどこかへ散ってしまって、夜になると客をくわえこんでくるらしい。  巳之介のねぐらとしている寺男の小屋ものぞいてみたが、開けっぱなした小屋のなかには、人影ひとつみえなかった。巳之介はまだ加賀屋の寮で寝泊まりをしているはずである。  佐七はそこを出ると、うらの墓地へまわってみた。墓地はあまりひろくはなく、墓石も五十か六十、これではやっていけないのもむりはない。それでも無縁仏ばかりではないとみえて、あたらしい花をそなえた墓もある。  墓地のむこうに入り口がみえている。佐七はそっちへむかって歩いていきながら、しかし、その目はゆだんなく、せまい墓地のすみずみにまでくばられている。  墓地のいちばんすみっこの、ごく目立たない場所に沢庵石《たくわんいし》ほどの石がすえてある。しかし、それが墓である証拠には、まえに花筒がおいてあり、花筒にはまだあたらしい秋の七草がさしてある。石のすわりかげんから、まだあたらしい墓らしかった。  佐七はよっぽどそっちのほうへまわってみようかと思ったが、あいにくそのとき、だれかこっちへくるようすに、そのまま入り口からそとへ出た。  その晩、佐七がひとあしさきにお玉が池へかえって待っていると、辰と豆六がほとんど同時にかえってきた。 「親分、岩松にゃべつに怪しいこともねえようですぜ。律儀で実直で、骨惜しみをしねえというんで、だれからもかわいがられているふうです」 「それで、女があるというようなうわさは?」 「そんな話は、どこからも出ませんでしたね。でえいち、千川に住みこんでからまだ日も浅く、あの柄じゃ、そうやすやすと女もできますめえよ」 「でも、ちょくちょく遊びにゃいくだろう、あのからだだから」 「さあ、そこまでは聞いてきませんでしたが、そんなことがだいじなんですか」 「なんでもいいから、岩松の出入りに気をつけてろ。じぶんの用でどこかへ出かけるようだったら、こっそりあとをつけてみるんだ。それから、豆六、おまえのほうはどうだ」 「へえ、姫鶴だすけんどな。ここんところ、だれもすがたを見たものがないらしいちゅう話だす」 「いつごろから、すがたが見えねえんだ」 「さあ、そこまではだれも覚えてえしまへん」 「姫鶴はもと下谷へんの畳屋の年季小僧だったという話だが、ああなってからは、どこに巣をくってるんだ」 「それだっけどな、ああなってからまもなく、どこかの藩のお留守居役に、一年ほどかこわれていたことがあるそうだす。そこをおひまが出てから、あちこちの陰間茶屋を渡り歩いていて、いまでもあの子のハッキリした住まいをしってるもんはないらしい。だいたい、芳町《よしちょう》の菊花《きっか》ちゅううちへいけばわかるちゅうんで、いてみたんですけんど、そこでも、ちかごろ縁が切れてるらしい。なにしろ、ひとりでかせいでるんで、あんなんがいちばん調べにくいやろと、菊花でもいうてました」 「親分、それじゃ、姫鶴があやしいと……?」 「まあいい、まあいい、この探索は、なかなからちがあかねえかもしれねえが、まあ、気長にやってみろ。豆六、できたら姫鶴がいつごろから姿をくらましたか、そこんところを、もっとはっきりさせてみろ」  その日以来、辰と豆六は毎晩おそくまで張りこみや聞きこみに駆けずりまわっていたが、十月三日の晩のこと。  佐七がこっそり忍んできたのは、安養寺の墓地である。みると、手に一丁の鍬《くわ》をもっている。佐七がそっと寺のほうをうかがうと、庫裏や納所にあかあかとあかりがついているのは、こんやもまたおおくの色若衆が、それぞれ客をくわえこんで、ゆがんだ快楽《けらく》にふけっているのであろう。  それにはんして、寺男の小屋がまっくらなのは、巳之介もこんやは神妙に、加賀屋の寮にねているのだろう。時刻はまだ五つ半(九時)、巳之介が万菊といっしょにそこにいるとしたら、あかりを消してねてしまうには、まだ惜しい時刻である。  佐七はかねてから目をつけておいたあの沢庵石の墓へちかづくと、そっと墓石をとりのぞき、音を立てぬように掘りはじめた。  空には三日の月が利鎌《とがま》のようにさえていて、星がふるようである。ちかごろでは、もう虫の音も細っていた。  佐七の墓掘り作業はすぐおわった。  掘り出されたのは小さなみかん箱だった。佐七は手ぬぐいをだして鼻と口をおおうと、十手のさきでみかん箱をこじあけた。みかん箱のなかにおさまっているのは、まぎれもなく人間の首である。  プーンと鼻をつく異臭に、佐七は顔をしかめながらも、箱のなかから首をとり出して顔をみた。どこのだれとも見わけがつかぬほど、すっかり腐乱していたが、しかし、銀弥でないことだけはハッキリしていた。  佐七はそれをもとどおり箱におさめると、穴の底において、うえから土をかけた。そのうえに沢庵石をのっけたが、もしひとが注意ぶかくそこを見ると、さいきんだれかが掘り起こしたということを、わざとわからせるようにしておいた。  その夜、辰と豆六がかえってきたのは、九つ(十二時)もすぎていた。まず、豆六が聞き出してきたところによると、十三夜の晩以来、姫鶴のすがたを見たものがひとりもないらしいとわかってきて、 「親分、それじゃ姫鶴が銀弥をやったんじゃ……」 「そや、そや、巳之さんが銀弥にぞっこんほれでるのをしって、姫鶴のやつがやきもち焼いて殺しよったにちがいおまへん」 「そうだ、そうだ、親分、それにちがいありませんぜ。あの連中のやきもちときたら、女よりすげえって話ですからね」  辰と豆六は意気込んだが、佐七はなぜかその手にのらず、 「それより、辰、てめえのほうはどうだ。岩松にその後変わったことはねえか」 「いやね、それが親分、野郎、ふてえ野郎で、やっぱりかくし女がいるんです」 「辰、それがどうしてわかった」 「いえね、親分の命令ですから、あっしはあれからずうっと岩松のやつを張ってたんです。そしたら、今夜の五つ半(九時)ごろになって、いやにめかしこんで、どこかへ出掛けるじゃありませんか。てっきり、吉原《なか》へでもしけこむつもりだなと思って、あとをつけていくと、野郎、両国橋をわたりゃアがった。さては吉田町へ、夜鷹《よたか》でもかいにいくのかと思っていると、なんと、本所横網は駒止橋《こまどめばし》のすぐちかくの、横町のおくの、ちょいと小意気なうちへはいっていったじゃありませんか」 「兄い、それがかくし女のうちだっかいな」 「そうなんだ。しばらくようすを見ていると、四十がっこうのばあやといったふうな女が出てきて、どっかへいっちまいました。なにしろ、せまい家ですからね。それから番屋へよって、番太郎に聞いてみたんですが、女はお艶《えん》といって、としは岩松より三つ四つうえらしいが、すごいようなべっぴんだそうです。それが、お常というばあやといっしょに住んでいて、そこへ岩松が通ってくるんだそうです」 「その女は、いつからそこに住んでいるんだ」 「それが、ごくさいきんだというんですがね。半月ほどまえからだって話です」 「そして、以前はなにをしていた女だ」 「それがよくわからねえんです。たぶん、岩松が岩錦のシコ名で土俵をふんでいたじぶんからの関係じゃねえかというんですが……」 「それで、いまなにをしているんだ。どっかへ水商売にでも出ているふうか」 「とんでもねえ、親分、それが、どうやら身重らしい。そろそろ四月になるんじゃないかって、番太郎はいってるんですがね」 「四月……?」  と、豆六は目をまるくして、 「ほんなら、その腹の子の父親が岩松やとすると、染井の祈祷所にいるじぶんから関係があったちゅうわけだんな」 「そうよ。どっかで忍びおうて、ちちくりあっていやアがったにちがいねえ。だから、あの野郎、うわべは律儀そうにみえてますが、そうとう食わせもんにちがいございませんぜ」  辰は小鼻をいからせ、くやしがることしきりだったが、佐七はなにか考えながら、 「ときに、辰、岩松はその女のところへ、しょっちゅう会いにくるのかい」 「いえ、それがね、三の日と八の日ときめてるらしいと番太郎はいってましたがね」 「それじゃ、こんど会いにいくのは十月八日だな。ときに、辰、その番太郎はおまえのことを岩松にしゃべりゃアしねえだろうな」 「それゃアだいじょうぶです。かたく口止めしておきましたからね」  佐七はまた黙ってかんがえこんでいた。  あぶりだされた二人   ——そういうおまえさまは銀弥さま  岩松の情婦お艶《えん》の住まいは、本所横網は駒止橋のほどちかく。  髪結い床と、荒物屋のあいだの路地をはいると、隅田川《すみだがわ》の川っぷちへつきあたるが、その路地のいちばんおくの左側は、近所にある大きな酒問屋の土蔵になっており、土蔵からすぐ舟へ積み荷ができるように、川にむかって石段がついている。  その土蔵のむかいがわ、すなわち、路地をはいっていちばんおくの右側が、岩松の情婦お艶の住まいである。むろん、長屋ではなく、小意気なかまえの一戸建て。まえには、横山町へんの、お店のだんなの妾宅《しょうたく》だったという話だが、だんなはいつも、舟でかよってきていたという。  十月八日の夜の五つ半(九時)過ぎ。  お艶の住まいのすぐそとの、川へおりる石段のしたに、小舟が一隻もやってあり、舟のなかには男がふたり、女がひとりうずくまっていた。  男のひとりはきんちゃくの辰で、辰は佐七のところへころげこむまえ、小舟乗りをやっていたから、舟をあやつるのはえてである。 「親分さん」  舟のなかにうずくまっている女が、ふるえるような声をかけた。声のようすでは、まだ若い娘のようである。 「こんなところで、いったい、なにを待っているのでございます。あたしゃ寒くてなりません」 「まあ、もうすこしの辛抱だ。いまに、らちをあけてお目にかけまさあ」 「親分さん、らちをあけるとは、なんのことでございますの」 「お蝶さん、おまえの迷いの夢をさましてあげようと思うのさ」 「あたしの迷いの夢、とおっしゃいますと……?」 「しっ、だれかやってきた。お蝶さん、声を立ててはなりませんぞ」  意外にも、舟のなかにいるもうひとりの男とは、いわずとしれた佐七だが、いまひとりの娘とは、なんと、佐々木屋敷のお蝶ではないか。  お蝶は佐七にくどかれて、わけもしらずにここにひそんでいるのだが、ようすありげな佐七のことばに、ハッと胸を抱きしめた。  そのとき、頭上の路地をはいってくる草履の音が、ひたひたと、こちらへちかづいてきたが、その足音が、すぐ川っぷちでとまったかと思うと、 「お艶《えん》……お艶……」  と、あたりをはばかるような男の声。と、すぐ格子がひらく音がして、 「岩さんかえ」  と、待ちこがれたような女の声。  男はすぐに、家のなかへはいっていったらしく、格子のしまる音がしたが、すぐまたそれが開く音がして、だれかが出掛けていくようす。おそらく、ばあやのお常が出ていったのだろう。  お常の足音が路地口から消えていったかと思うとまもなく、ねこのように足音もなく、石段をすべりおりてきた男が、だしぬけに、 「親分」  と声をかけたので、お蝶はおもわず、 「あれえッ!」  とさけんで、佐七の胸にしがみついた。佐七があわてて口をおさえなかったら、その声は頭上の家のふたりにきこえただろう。 「バカ野郎、こっちには若い娘さんがいるんだ。気をつけねえか」  佐七はささやくような声でたしなめると、 「してして、豆六、首尾はどうだ」  石段をすべりおりてきたのは豆六である。 「へえへえ、首尾は上首尾、いま岩松がはいっていったところだす。いれちがいに、お常というばあやが出ていきました」 「それにしても、親分、岩松と岩松の女がどうかしたんですか」  辰がそばからヒソヒソ声で口をだす。どうやら、辰と豆六も、佐七がなぜこのふたりに目をつけているのか、理由はまだしらないらしい。 「まあいいさ。もうしばらくたてば、てめえらにもわかってくらあ」 「ほんなら、親分、さっそくあぶりだしにかかりまひょか」 「まあ、待て。せっかく会いにやってきたんだ。しんみり睦言《むつごと》させてやろうよ。悪くすると、打ち首獄門をまぬがれねえふたりだ。おっと、声を立てちゃいけねえ、いけねえ」  佐七があわてて口をおさえたので、お蝶の悲鳴は、やっと、佐七の手のひらのなかでかき消された。  こうして待つこと四半刻(半時間)。  お常が出ていってからまもなく、頭上の家のあかりは消えたが、あとでは、男と女がなにをしているのか。空には利鎌《とがま》のような月がかかっているが、満々とふくれあがった川のうえは、舟のいききもなくまっくらである。むこうにみえる両国橋にも、さっきから、ひとの往来はとだえていた。  お蝶はさっきから必死となって、佐七の胸にしがみついているが、ひっきりなしにふるえているのは、身にしみる川風のせいばかりではない。 「よし、それじゃいよいよ、やっつけようか。辰、豆六、支度をしろ」 「おっと、がってんだ」  と、辰が舟底からとりあげたのは、大きな炭俵である。炭俵には、いっぱいかんなくずがつまっている。 「さあ、豆六、わたすぜ、音を立てるな」 「おっと、承知」  炭俵は五つあった。豆六がひとつひとつ石段のうえにかつぎあげると、あとから辰が、川の水をいっぱいくみこんだ手桶《ておけ》を両手にぶらさげてあがっていく。佐七もひとつ片手にぶらさげて、 「さあ、お蝶さん、いこう。おいらがいいというまで、けっして声を立てるんじゃありませんぜ」  お蝶ははなにが起こるのかと、胸をわくわくさせながら、佐七に手をとられて、石段をのぼっていく。路地へあがると、土蔵のまえのほどよいところに、炭俵が五つつんであった。 「それ、辰、豆六、やっつけろ」  佐七の命令で、辰と豆六が炭俵に火を放ったからたまらない。パッと燃えあがる火の手とどうじに、 「火事だ、火事だ、土蔵が燃えるぞ」 「火事や、火事や、そら、土蔵がもえるわ、土蔵がもえるわ」  辰と豆六がくちぐちに叫んだからたまらない。  路地のなかからあわてふためくひとびとの気配がきこえたが、とりわけおどろいたのは、すぐ鼻先のお艶《えん》の家。それゃそうだろう。パッと目を射る炎のあかりに、男も女もびっくり仰天したにちがいない。  ドタバタと、あわてふためく気配がしたかと思うと、ガラリと格子をひらいて、とびだしてきたのは岩松である。寝間着のひもをしめながら、 「さ、さ、お艶、はやく、はやく……」 「岩さん、待って……」  長襦袢《ながじゅばん》いちまいの、しどけないかっこうで、女があとからとび出してきたとき、 「それ、お蝶さん、おまえの恋しいひとが、そこにいらあな」  どんとあとから背中を押され、よろよろ、まえによろめいたお蝶は、岩松に手をひかれて出てきた女に、バッタリ突きあたったひょうしに、たがいに見合わす顔と顔。 「あれ、あなたはお蝶さま」 「そういうおまえは銀弥さま」  お蝶はあきれはてたように、変わりはてたあいての顔を見まもっていた。  変わりも変わったも、これほど大きな変化があろうか。緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢のまえもしどけなく、ほおにかかったほつれ毛といい、がっくりかたむいたつぶし島田の髷《まげ》といい、いままで男とばかり思いこんでいたあいてが、いま手をひかれた男のたくましい腕に抱かれて、いまなにをしていたか、されていたか、お蝶もとしごろ、だいたい想像できるのである。  お蝶の目は、ふと、あいての長襦袢の腹へいったが、それは、あきらかにあいてがすでに身重になっていることをしめしている。  お蝶はとつぜん、わっとばかりに泣きだした。 「お蝶さま、すみません、すみません、面目しだいもございません」  銀弥のお艶も、骨をぬかれたようにくたくたと、路地のうえにうずくまった。  この物語も、ここまでくるとおしまいであろう。あとはなぞ解きだけである。  染井権現の大惨劇   ——のこぎりでひき始めたときの恐ろしさ 「いや、もうおどろきましたねえ。銀弥が女であったとはねえ」 「それにしても、親分、親分はいつごろから、銀弥が女だと気がつきやはったんです」  一件ことごとく落着したのち、例によってれいのごとく、辰と豆六がなぞ解きをせまるのである。佐七はしかし、たいして手柄顔でもなく、かえってうかぬ顔色で、 「そうよなあ、あの首無し死体を見たときから、ひょっとすると、銀弥は女じゃないかと思ったんだ」 「これゃまたどうして? あっしどももあの死体を、親分といっしょに見てるんですがねえ」 「尾籠《びろう》なことをいうようだが、あの首無し死体は、湯文字もふんどしも、していなかったろう」 「へえ、へえ。それで……?」 「ところで、森川宿の安養寺で、われわれにたたき起こされたとき、万菊は赤い腰巻きをしていたな」 「そうだす、そうだす。ああいう連中はみんな、男のくせに、女みたいななりをしてまっさかいにな」 「そうだろう。ところが、銀弥は男袴《おとこばかま》をはいていたから、湯文字をしめるわけにゃいかねえ。それなら、銀弥がほんとに男なら、ふんどしぐれえしめていなきゃならねえはずだ」 「そうそう、そういえばああいう色若衆のなかにゃ、湯文字のかわりに緋縮緬《ひぢりめん》のふんどしをしめているのがいるそうですよ」 「そう、おれもそういう話をきいている。ところが、あの死体は、湯文字もふんどしもどちらもしてねえ。そこへもってきて、首がねえときている。だから、あの死体が銀弥だというたしかな証拠はどこにもねえ。身につけているもののほかにはな。しかし、きものや袴や膚襦袢は、あとからどうにでも細工ができる。そう思って、死体をよくよく調べてみると、胸にうけた傷と、きものや膚襦袢の切り口が、すこしずれてるような気がしたんだ」 「なるほど。それで、だれかが身代わりにされたんやないかと思やはったんでんな」 「ふむ。それで、死体をはだかにしてしらべてみると、身代わりは身代わりでも、あの死体のぬしも、やっぱり色若衆だったらしいことは、おめえたちも見たとおりだ。それで、なおもくわしく死体をしらべてみると、右手の親指が、まむしの頭のようにひらたくなっているうえに、右ひじがタコのように、かたくなっている。それで、ふっと思い出したのが、姫鶴という子は、ああなるまえは、畳屋の年季小僧だったという話だ」 「あっ、なアるほど。それじゃ、親分ははなからあの死体を、姫鶴だとしっておいでなすったんですね」 「いや、ハッキリしってたわけじゃねえが、念のためにおめえらに、姫鶴のいどころを調べてもらったら、はたして、十三夜の晩からゆくえがわからねえという」 「それを、わてら、姫鶴が銀弥を殺してゆくえをくらましたんやと思てたんやさかい、こら、ええ面の皮だんな」 「まあ、まあ、かんべんしろ。おれもまだハッキリ姫鶴だといいきる自信はなかったんだから。おまえたちに内緒でこっそり、安養寺の墓地を掘ってみるまではな」 「そうそう、安養寺の墓場から、姫鶴の首が出たそうですね」 「いや、おれが掘り出したときは、まだ姫鶴だとはわからなかった。おれア姫鶴に会ったことはねえからな。だけど、銀弥の首じゃなかったんだ。しかし、いずれにしても銀弥の衣類を着せてあるからにゃ、その場に銀弥がいあわせたことはたしかだな。銀弥の衣装をすっかりきせて、銀弥の死体とみせかけようとしたらしいが、それならなぜ、ふんどしもしめさせておかなかったのか。銀弥が男なら、赤にしろ、白にしろ、ふんどしぐれえはしめてるはずだ。姫鶴はあのとき女のような腰巻きをしていたんだろう。だから、それを男袴の銀弥にさせるわけにゃいかなかった。銀弥は銀弥で、ほんとは女だから、赤にしろ白にしろ、ふんどしをしめるのをいやがったんだろう。だから、死体は一糸まとわぬまるはだか」 「あ、なアるほど。それで親分は、銀弥を女やないかとにらみやはったんやな。やっぱり、わてらあきまへんな」  豆六はようやくおのれを知ったようである。  銀弥のお艶《えん》の告白によると、十三夜の晩の、染井権現の境内では、世にも凄惨《せいさん》な情景が展開されたらしい。  大日坊の魔の手からいつかのがれたいと、機会をねらっていたお艶の銀弥は、大日坊が血ヘドを吐いて苦しみだすと、このときとばかりに、佐々木の屋敷をとび出した。彼女がその場から逃亡せずにいったん祈祷所へとってかえしたのは、かねてからたんすの底に、ひそかに用意しておいた女物の衣装をもちだすためであった。  ふろしきにつつんだ女物の衣装をかかえ、祈祷所をとびだしたお艶は、染井権現の祠《ほこら》のなかで衣装をかえると、頭はとりあえずお高祖頭巾《こそずきん》なんかでつつんで、岩松のところへ落ちのびるつもりであった。そうして、銀弥をこの世から抹殺《まっさつ》することによって、女としての再生をはかろうとしたのである。  しかし、世の中ばんじ、思うようにならないものだとは、このことだろう。  染井権現の境内までさしかかったとき、あとをつけてきた巳之介に呼びとめられた。いや、呼びとめられたのみならず、くどかれたのである。お艶がいかに当惑したか、想像に絶するものがあったろう。  ここで、じぶんが女であることを打ち明けてしまったら、すべての計画は水泡《すいほう》に帰す。銀弥はあくまで男にしておかねばならぬ。銀弥が女であることをしられたら、お艶の女としての再生に、重大な支障をきたすのだ。  お艶はとほうにくれてしまったが、そんなこととはゆめにもしらぬ巳之介は、切々としてじぶんの恋情をうったえた。いや、うったえたのみならず、むりむたいに、銀弥を辻堂《つじどう》のなかへ引っ張りこもうとした。銀弥がすなおに承服しなければ、暴力をもってしてでも、思いをとげようというのである。  こうして、ふたりがもみあっているところへ、かけつけてきたのが姫鶴である。  辰も豆六もいったとおり、このてあいの嫉妬《しっと》というものはおそろしい。そうでなくとも、万菊に巳之介をとられていらい、嫉妬の鬼と化していた姫鶴は、いきなり匕首《あいくち》をふるって、銀弥におそいかかった。  ところが、そこへまた、あとを追ってきたのが万菊である。これをみると、姫鶴は銀弥をすてて万菊におそいかかった。  こうして、巳之介をなかにはさみ、深讐綿々《しんしゅうめんめん》たる寝刃《ねたば》をといでいたふたりの色若衆のあいだに、一本の匕首を中心として、おそろしい死闘が展開されたが、そのうちに、どうしたはずみか、姫鶴はわれとわが匕首に胸をえぐられ、その場に倒れてしまったのである。  そのときの万菊の行為は、あきらかに正当防衛であった。しかし、恋がたきを手にかけて、すっかり逆上した万菊は、かえす刀で、そこに立ちすくんでいる銀弥めがけておそいかかった。  こうなっては、銀弥ももう、つつみかくしはできなかった。お艶ははじめて、じぶんが女であることを打ち明けた。  万菊もおどろいたが、それ以上におどろいたのは巳之介である。お艶に女である証拠を見せられたうえ、若衆姿をしているとふしぎに若くみえるらしいが、じっさいはもう二十六だときかされたとき、巳之介は茫然《ぼうぜん》自失した。  そこで、いろいろ話しあっているうちに、三人の利害関係が完全に一致しているのに気がついた。  お艶はあくまで銀弥をこの世から消してしまいたいのである。巳之介と万菊のほうでは、姫鶴が殺されたとなると、当然ふたりに疑いがかかってくる。  そこで、世にも大胆にして凄惨《せいさん》な死体の身もとすりかえがおこなわれたのである。 「わたしと万菊さんのふたりで、姫鶴さんの衣装をぬがせ、銀弥の衣装をきせました。万菊さんが銀弥の衣装に匕首で傷をつけました。そのあいだに、加賀屋さんの寮へとってかえした巳之介さんが、のこぎりをもってきました。地面に血がながれないようにと、姫鶴さんの上半身をうつぶせに、井戸の井桁《いげた》のうえにもたれさせ、巳之介さんがのこぎりでひきはじめたときの恐ろしさ」  おたがいに口をわらないようにと、お艶はさいごまで共犯者として協力を強いられたのである。  やがて、首をひききってしまうと、巳之介は姫鶴の衣装のなかにくるみこみ、さらにそのうえから用意してきた合羽につつんで、万菊とともに立ち去った。  そこでやっと解放されたお艶は、お高祖頭巾《こそずきん》でおもてをつつみ、おねて岩松がしつらえておいてくれたこのかくれ家へ落ちのびてきたのである。 「なるほど、それでだいたいの話はわかったが、大日坊とお喜多に毒を盛ったのはおまえさんかえ」 「いいえ、それはわたしじゃございません。師匠……大日坊が、茂右衛門さんと万五郎さんの吸い物わんに毒を盛ったのでございます。それをわたくしが、大日坊とお喜多さんのおわんにすりかえたのでございます」 「それゃまたなぜに……?」 「そうでもしなければ、早晩わたしがいっぷく盛られて、葬り去られることはわかりきっております」  お艶はそういって、佐七のまえでよよと泣きむせんだ。  お艶はもと京都のもので、れっきとした夫のある身だった。大日坊はそのころ公卿侍《くげざむらい》で、これまた妻のある身のうえだったが、お艶はいつか大日坊の毒牙《どくが》にかかり、不義の快楽《けらく》にふけっていたが、そのうちに大日坊の妻とお艶の夫が、同時に変死をとげたのである。  いまから四年まえ、ふた夫婦そろって、大阪の天神祭りの船渡御を見物にいった晩のこと、船がひっくりかえって、お艶と大日坊だけが助かった。そこで、手に手をとって、江戸へ駆け落ちしてくるとまもなく、大日坊がああいう稼業をはじめたのは、かれがかつて奉公していた公卿というのが、加持祈祷《かじきとう》をつかさどる家だったので、かれもいくらか心得があったらしい。  お艶は事実上、大日坊の妻だったが、男装すると、ふしぎに若くみえるところから、色小姓の役目をつとめさせられた。それは、妻のあることをかくすのと、もうひとつ、お蝶のようなわかい娘をひきよせようという魂胆だったらしい。 「わたしは天神祭りの晩、あのひとの奥さまとわたしの夫が、あのひとの手にかかって殺されたと、ハッキリとは申せません。しかし、わたしの胸にはいつもその疑いがくすぶっておりました。そして、いつかわたしも、あのひとに飽かれて、殺されるのではなかろうかという恐怖に、わたしは悩まされつづけました」  そのうちに、お艶は大日坊の計画に気がついたのである。  佐々木の後添いのお喜多とは、お喜多が葛飾《かつしか》の名主、庄司源左衛門の後家であるころから、ねんごろな仲になっていた。そのお喜多が、一昨年の春、佐々木茂右衛門のところへとついでくると、そのあとを追うように、大日坊が染井へ引っ越してきたのは、いうまでもなく、お喜多としめしあわせてのことだろう。 「わたしは大日坊とお喜多さんが恐ろしい相談をしているところを、つい立ちぎきしてしまいました」  それは、お彼岸のつい二、三日まえのことだというから、大日坊がとりかぶとの毒を鬼若でためしてみてから、すこしのちのことらしい。それによると、じゃまになる茂右衛門と万五郎を、きのこの毒とみせかけて毒害し、娘のお蝶は銀弥と駆け落ちしたといいふらし、佐々木の家をのっとるつもりだったというのである。 「そうして、わたしにいっぷく盛って、顔をめちゃめちゃに切りきざんでどこかへ捨てておけば、だれも気がつくものはあるまい。世間では、銀弥は男でとおっているのだからと……」  その相談を立ちぎきしていらい、お艶は飲むもの、食うものにも用心していたが、あの晩はからずも大日坊が、吸い物わんになにやらあやしいものを投げこむのをみて、そっとすりかえておいたのである。 「しかし、お艶、茂右衛門さんと万五郎さんだけを殺すなら、ふたつのおわんに毒を盛ればよいはず。ところが、あのとき毒にあたったのは三人だぜ」 「しかし、佐々木さまの御主人さまは、お助かりになったはず」 「というと……?」 「それですから、そのおわんを大日坊が吸うはずだったのでございます。じぶんも毒に当たったとみせかけて、世間のうたがいを避けるため……ほんとにあのひとは、恐ろしいひとでございました」  お艶は蒼白《そうはく》の顔で歯をくいしばり、いまさらのように、身ぶるいをするのだった。  艶色《えんしょく》秘戯百態部屋   ——お艶は岩松に裸身を投げだし 「なるほど、だいたい、それでようすはわかったが、ここにいる岩松とは、いつごろから、ねんごろになったんだ」  さすがにお艶も岩松も、ほおをあからめたが、お艶はしかしキッパリと、 「はい、もう、かれこれ半年になります」 「岩松が、おまえを女と見抜いてくどいたのか」 「いいえ、そうではございません」  お艶と岩松のほおの朱の色は、いよいよまっ赤にもえあがったが、やがてお艶は心をきめたように、きっと、佐七の顔をまともに見ると、 「親分さんは、あの祈祷所のおくに、妙な部屋があるのをご存じじゃございませんか」 「ふむ、しっている。それが……?」 「いまから半年ほどまえ、四月のはじめごろでした。大日坊も、弥兵衛さん夫婦も、半日他出したことがございました。そのとき、岩さんをあの部屋へつれこんで、じぶんが女であることを打ち明け、抱いてほしいとたのんだのでございます。岩さんはわたしを女としっても、大日坊を恐れたのか、なかなかうんといってくれませんでしたが、わたしがそこへ床をのべ、なにもかもかなぐり捨てて身をよこたえると、やっとその気になって、わたしを抱いてくれたのでございます」  お艶は満面に朱をはきながら、それでもわるびれずにいった。そばでは岩松がうでだこみたいにまっ赤になってうつむいている。  その岩松のひろい肩幅、あつい胸板、丸太ン棒のようにふとい腕《かいな》、太くて重そうな腰から臀《しり》、岩松のはだかのからだをしっている佐七には、そのときのふたりの猛烈なからみあいの情景が、目に見えるようである。  ことに、あの部屋いちめんに描かれたあやしい絵をしっている佐七には、いったん法《のり》をこえたあとの岩松の興奮状態が想像できるようである。 「なるほど、それゃア男をくどくにゃいい方法だな。あの部屋へひっぱりこまれて、おまえさんみてえなべっぴんのはだかを目のまえにつきつけられちゃ、いかな石部《いしべ》金吉でも、気ちげえみてえにたけり狂うだろう」  佐七はにが笑いをしながら、 「お艶さん、おまえは身重になっているようだが、それは岩さんのタネかね」 「はい」 「どうして、そうハッキリいいきれるんだ。おまえさんは大日坊とも、夫婦ぐらしをしていたんだろう」  そのしゅんかん、お艶のほおにまた朱がもえた。しかし、こんどの紅潮ははじらいよりも、怒りと屈辱のほのおであった。 「親分さん」  お艶は目にいっぱい涙をためて、歯ぎしりをするようなはげしい口調で、 「あのひとは……いいえ、あのひとでなしは、もうながいこと、わたしを女として抱かなかったのでございます。あの男がわたしを抱くときは、いつも若衆として、わたしのからだをもてあそんだんです」  お艶はそこでたもとを顔におしあてて、さめざめと泣きむせんだ。  こうしてみると、お艶はなにひとつ悪いことをしているわけではなかった。おわんをすりかえたのだって、ハッキリ毒としってやったわけではないし、もし、そのとき、お艶の機転がなければ、茂右衛門と万五郎がやられるところであった。  大日坊のような男が、いったん毒の味をおぼえたら、将来、なにをしでかすかわからない。とすると、お艶はそれらの犯罪を、未然に防いだのだ、ということになるのではないか。そこらの情状を酌量《しゃくりょう》されて、お艶はお構いなしということになった。 「それにしても、親分、お蝶はなぜあんなうそをついたんです。銀弥に袴《はかま》をぬいでもらって、うえから抱かれて、さんざんうれしがらせてもらったなんて」 「そやそや、あれがあるさかいに、わてら銀弥を男と思いこんだんですがな」 「あっはっは、あの年ごろの娘というものは、みんな夢をもつんだな。それに、あのお蝶という娘は、ひと一倍|早熟《わせ》で、じゃじゃ馬ときている。ひとつにゃ万五郎さんにつらあてもあったんじゃねえのかな」 「どうしてです。万五郎てなあ、なかなかりっぱな若者じゃありませんか」 「そうよ。そのりっぱな若者の万五郎さんが、おなじ屋敷に住みながら、なんにもしてくれねえもんだから、じゃじゃ馬のお蝶さん、血の道でもおこしたんだろうよ。あっはっは」  佐七の推測はあたっていたらしく、万五郎のうたがい晴れてかえってくると、佐々木のうちでは、さっそくお蝶と祝言させたが、それいらい、お蝶はすっかりおとなしくなったという。  巳之介は、姫鶴の首塚《くびつか》があばかれたとしると、いちじ姿をくらましていたが、銀弥のお艶が発見されて、なにもかも明るみに出たとしると、佐七のもとに自訴して出た。  万菊は正当防衛がみとめられて、江戸お構いでことがすんだが、巳之介はそうはいかなかった。  死体の首を切りおとしたばかりか、世間をさわがせしだん不届きなりとあって、遠島を仰せつけられたが、巳之介はいさぎよくその罪に服して、三宅島《みやけじま》へ送られていった。 「それにしても、親分、海坊主のところへあんな手紙をよこしたなア、あれゃアいったいだれだったんです」 「あっはっは、あれか。あれゃア巳之さんよ」 「巳之さんが、なんで海坊主にあないな手紙を……?」 「あのままじゃ、いつまでたっても銀弥のゆくえが追求されるだろう。それじゃお艶がかわいそうだと思ったんだな。だから、銀弥はもうこのとおり死んでおります。だから、さがすのはおよしなさいと、江戸中の岡《おか》っ引《ぴ》きに手を引かせるつもりだったんだ。しかし、おれをだますのは悪いから、鳥越の兄いに白羽の矢を立てたんだな」 「すると、海坊主め、うめえぐあいに、白痴《こけ》にされやアがったんだな。それを海坊主め、江戸一番の捕り物名人だなんて、得意になりゃアがって、ざまあみろ」  辰はひさしぶりに、溜飲《りゅういん》のさがる思いである。 「それにしても、親分、巳之さんはなんでまた、お艶のことでそないに気イつかはったんだっしゃろ。ひょっとすると、ぞっこんほれた若衆が女やったとわかって、巳之さん、すこし考えがかわらはったんとちがいまっしゃろか」 「豆六、よくいってくれた。おれも、そうあってほしいと祈っているんだ。そうだと、二年か三年島で棒にふったところで、一生のうちにゃ取りかえしがつくというもんだからなあ」  佐七はしみじみとした調子でいった。 「それにしても、親分、磯田孫之進はどうしたんです。あれゃただの食当たりですかえ」 「なあに、もちろんお喜多がおはぎのなかに毒をしこんでおいたのさ」 「それゃまた、なぜに……?」 「犬だけでは心もとないから、人間でためしてみやアがったのさ。それに、どれだけ毒を盛ればひとが死ぬか、どれくらいなら苦しむだけで助かるか、いろいろかげんして、ためしてみやアがったにちがいねえ。だから、お彼岸の日、佐々木のうちで施行のおはぎをもらって食った人間のなかにゃ、腹痛だけですんだおかたもあるにちがいねえ。孫之進さんは、いちばん強いやつに当たったのが運のつきだったんだな。それを思えば、お艶はよくおわんをすりかえてくれたよ。あんなやつを生かしておいちゃ、のちのちなにをやらかしたかしれたもんじゃねえからな」  むろん、染井の祈祷所はとりこわされ、女人奉加帳は佐七の手で、ひとしれず焼き払われたということである。  磯田孫之進の娘のお君は、佐七のことばぞえで佐々木の屋敷へひきとられたが、それは当然そうあるべきであろう。     生きている自来也  盗み去った銀かんざし   ——自来也と左書きの三文字 「親分、たいへんだ、たいへんだ」 「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」  神田お玉が池はおなじみの、人形佐七の住まいへ、いましもあわをくってとびこんできたのは、いわずとしれたきんちゃくの辰五郎と、うらなりの豆六という、そろいもそろったあいきょう者。  朝風呂からのかえりとみえて、ふたりとも気味悪いほどてらてらと、額を光らせているのである。 「あ、痛ッ、な、なんだ騒々しい、どんな一大事かしらないけれど、もう少し静かにできねえものか」 「ほんとに、びっくりさせるねえ。おどかさないでおくれ。あたしゃすんでのことに、親分の耳をつき破るところだったじゃないか」  秋立つと、目にはさやかに見えないけれど、風の音にもおどろかれる朝のこと、ひと足さきにお湯からかえった人形佐七は、いましも至極のんびりと、恋女房のお粂に耳あかをとらせているところだった。 「ひえっ、こいつは驚いた。いつもながらおむつまじいことで、これじゃ湯当たりどころのさわぎじゃねえぜ。なあ、豆六」 「ほんまにいな。朝っぱらからあねさんに耳あかとってもらはったら、さぞや世間のことが、よう聞こえるようになりまっしゃろ」 「そうよ、いまにてめえたちが天下の一大事を聞きこんで、どなりこんでくるだろうと、耳の穴をかっぽじって待っていたんだ」 「そらまあ、えらい手回しのええことだんな」 「そうとも、御用聞きは万事、これくらいの心掛けじゃねえとつとまらねえ」  と、佐七は笑いながら、 「冗談はさておいて、辰、豆六、そのえらいこっちゃの一件を聞こうじゃねえか」 「おっと、そのこと、そのこと」  辰と豆六はにわかにひざを乗りだすと、 「親分、ゆうべまた出ましたぜ」 「出たとはなにが出たんだ」 「なんやちゅうて、親分、ほら、あの自来也《じらいや》やがな」 「なに? 自来也がまた出たと?」  佐七はおもわずいきむ拍子に、あ、痛ッ、と、耳をおさえて、 「おお、いてえ、だしぬけに脅かすもんだから、もう少しで片耳ふいにするところだった。お粂、もうよそう。そして、辰、豆六、その自来也が出たというのは、いってえどこの家だえ」  佐七はにわかにひざを進めた。 「へえ、なんでも浅草|橋場《はしば》の川岸にある、蔦《つた》の家《や》の寮だということで」 「蔦の家といや、柳橋の芸者家か」 「そやそや。なんでもそこへ、いま、小花という芸者衆が、病気保養にきてるんやそうだすが、そこへさして、ゆうべ自来也が押しこんだちゅうので、いやもう、そこらじゅうえらい騒ぎや」 「ふむ、その小花になにか間違いでもあったのか」 「いや、そのほうはさいわいに、小花も、女中のお芳《よし》というのも、よく寝込んでおりましたので、あやまちはなかったそうですが、ここにまたしても、妙なものが盗まれました」 「妙なものって、こんどはなんだ」 「それが、親分、小花の銀のかんざしが一本きりで」 「なんだ、銀かんざしが一本きりかえ」 「へえ、それだけやちゅう話だす。ほんまにけったいなやつやおまへんか。せっかく、危ない目えして忍びこんでおきながら、いつも盗んでいくのは愚にもつかんものばっかり、さっぱり気のしれんやつやなあ」 「ふうむ」  と、佐七は腕こまぬくと、 「そして、やっぱり例のやつがのこしてあったんだろうな」 「へえ、そりゃもう、いつものとおりで、壁のうえに墨くろぐろと、左書きの文字で自来也と、たしかに書き残してあったそうです」 「ふうむ」  と、佐七はもういちど、うめくように鼻から息を吐きだして、小首をかしげたものである。  持ち去られた死骸《しがい》の手首   ——どうもふに落ちぬどろぼうだ  自来也。——というのは支那の稗史《はいし》(小説)にでてくる大どろぼうの名前だが、数年いぜん日本でも、これを翻案して『自来也豪傑物語』という題の戯作《げさく》があらわれた。  自来也と、しのびこんだ屋敷の壁やふすまに署名をのこす東洋のアルセーヌ・ルパン。  この小説がどっと世間から迎えられたころ、よくあるやつで、それをそっくりそのまままねて、戯作を地でいく盗賊がその当時江戸にあらわれて、ひとびとを畏怖《いふ》させたものである。  当時のお調べ書きをしらべてみると、この自来也が荒しまわった屋敷のかずかずが、ざっと百軒あまり。  かすめとった金は、一万両をくだるまいといわれて、奉行所でもやっきとなって、怪盗捕縛に狂奔したが、いまだしっぽもつかめぬうちに、自来也のほうでぱったり消息をたってしまって、それからことしで足かけ七年。  いちじは、あれほど世間をさわがせながら、まるで灯の消えたように消息がたえたのは、おおかた盗みためた金で、栄耀栄華《えいようえいが》に暮らしているのだろうという説と、いや、自来也は死んだのだろうという説と、そのふたとおりある。  いずれにしても、それきり姿をみせないのだから、正体はついにわからずじまい。さいわい、その後は、そういう大どろぼうもあらわれなかったから、世間もほっと安堵《あんど》して、いつか自来也のうわさもわすれがちだったが、それがこの夏のおわりごろ、またぞろ江戸にあらわれて、あっとばかりに江戸っ子のどぎもをぬいた。  しかも、七年まえの自来也は、盗みはすれど非道はせずと、うばいとった金高こそ大きかったが、ひとを傷つけたことはいちどもなかったのに、こんどは現れるがはやいか、むごたらしい人殺しをやってのけたのだから、ひとびとがふるえあがったのも無理はない。  この自来也の再来に、さいしょのお見舞いをうけたのは、芝金杉《しばかなすぎ》にすむ磯貝雁阿弥《いそがいがんあみ》という刀の鑑定などする人物で、これが八月十八日の晩におそわれた。  そもそも、この磯貝雁阿弥というのは、もとは西国浪人とやら、四十前後の大兵肥満《だいひょうひまん》の男だが、三、四年まえに江戸へ出てきて、刀の鑑定などをはじめた。  ところが、これがなかなか巧者なことから、おいおいひいきがついて、ちかごろではふところぐあいも大福々、昨年金杉におつな家を買い込み、深川あたりでいきすじづとめをしていたお妻という女をひかして女房にしている。  さて、八月十九日の朝のこと。  出入りの刀屋の手代がたずねていくと、家のなかで妙なうめき声がするので、近所のものをかきあつめてはいってみると、雁阿弥夫婦ががんじがらめに縛りあげられ、その隣室には黒装束、忍びすがたのくせ者が、ずたずたに切り殺されているのである。  しかも、壁のうえにれいれいしく書きのこしたのが、『自来也』という左書きの三文字だから、騒ぎはにわかに大きくなった。すぐ岡《おか》っ引《ぴ》きが出張する、八丁堀《はっちょうぼり》のお役人がでむいてくる。  佐七も騒ぎをきいてかけつけたが、そこで雁阿弥夫婦がこもごもかたる話を聞くとこうなのだ。  昨夜深更だしぬけにたたきおこされて目をさますと、まくらもとに雲つくばかりの男がふたり、抜き身をさげて立っている。はっと思うまもなく、ふたりが左右からおどりかかって縛りあげられた。 「いや、われながらふがいない話で、わたしとてももとは武士、目がさめていたら、こうもやすやすと手込めにはなりませぬ」  ざんねんそうにくちびるをかむ雁阿弥は、いかさまひと癖ありげな面魂だった。  女房のお妻というのはあだっぽい女だったが、青いまゆを勝ち気らしくふるわせると、 「ほんとにくやしいじゃありませんか。あたしたちを縛りあげると、ふたりのやつはゆうゆうと隣座敷へいって、なにか探していましたが、そのうちに仲間げんかをはじめまして、とうとう、ひとりが相棒を切りころして逃げていったんです」  その死骸をみると、黒装束に黒頭巾《くろずきん》、足ごしらえも厳重なのは、よほど物慣れたやつとおもわれたが、驚いたことには、その顔がずたずたに切りきざまれているので、どこのだれともかいもくわからぬ。  それに、もうひとつふしぎなのは、右の腕が手首からすっぽり切り落としてあるのである。  相好をくずしていったのは、死体の身もとから足がついてはならぬという用心であろうと想像できるが、手首を持ち去ったのは、どう考えても理由がわからぬ。  さらに、もうひとつのふしぎというのは、これだけの騒ぎを演じながら、くせ者のうばい去ったのは、雁阿弥が預かっていた刀が一本、それもいたって鈍刀《なまくら》だったから、あわてていたにしても、よっぽど間抜けな自来也だった。 「佐七、そのほうはどう思う。この自来也と、七年まえの自来也と、おなじ人間であろうかの」  与力|神崎甚五郎《かんざきじんごろう》のことばに、佐七も首をひねって、 「少しふに落ちぬふしがございますね。七年まえのときには、あっしはまだ部屋住みでよくしりませんが、自来也というやつは、決して人殺しはやらなかった。また、金以外のものには手をつけなかったと申します。それに、おかしいのはこの左書きで、これは筆跡をくらますためと思いますが、七年まえのときには、こんな細工はやらなかった。してみると、こいつは少々……」 「ふむ、おれの考えもおなじだ。おおかた、七年まえの騒ぎをおぼえていたやつが、まねをしやアがったのだろう。しかし、悪いことがはじまったな。これが口火となって、また七年まえのような騒ぎにならねばよいが」  甚五郎はまゆをひそめたが、果たして、それから十日ほどのちのこと、またもや第二の自来也騒ぎがもちあがった。  このたびは、石町の津の国屋という両替屋の別荘で、おそわれたのは隠居夫婦。どろぼうはひとりで、おなじく夫婦を縛りあげ、なにやらごとごと探していたが、朝になってみると壁のうえに、自来也という、れいによって左書きの三文字。  しかも、盗まれたものが隠居のつかい古した印篭《いんろう》がひとつきりというのだから、佐七はいよいよ首をひねらざるをえない。  なんだか変だぞ。これゃただのどろぼう事件じゃねえぞ。——佐七の頭にピンとそうきていたおりもおり、三度目は芸者のかんざし一本ときいて、 「辰、豆六、ともかく出かけてみようぜ。こいつはなんだか大物になりそうだ」  佐七はすっくと立ちあがったのである。  小花と大工の巳之助《みのすけ》   ——辰と豆六はがっかりした  蔦《つた》の家《や》の小花はことし二十一、すきとおるような美貌《びぼう》で、どちらかというと憂《うれ》い顔のほうだったが、気性がすなおで、座敷のつとめを大事にするところから、柳橋でもなだいの売れっ子。  玉に傷なのは、体がよわくて、しじゅう患っているが、蔦の家でもだいじな子だから粗略にしない。患うといつも、主人がたてた橋場の寮へ保養にやるので、あの寮はまるで、小花さんのために建てたようなものだと、朋輩《ほうばい》がねたみ口をきくくらい。  その小花は、けさの驚きからまださめぬのか、あおい顔で佐七をむかえると、 「ご苦労さまでございます。盗まれたといってもたかがかんざし一本、お届けするほどのことはないと思いましたが、あの壁の字が気になって……」  と、砂壁にのこった左書きを指さしながら、 「ほんとに妙などろぼうでございます。かんざしなど持っていって、どうするつもりでござんしょうなあ」 「いや、小花さんのかんざしなら、おおきに欲しがるものがいるだろうぜ。どこかそこらにもそういうのが二匹、鼻をひこつかせているようだ」 「わっ、親分!」 「そら殺生や!」  と、頭をかかえる辰と豆六を寂しげにみやりながら、 「ほっほっほ、親分のお口のわるい」  恥ずかしそうにうつむいた小花の顔に、ぽっと紅葉がちって、これが芸者づとめの女とは思えぬほどのういういしさ、こめかみにはった梅型の頭痛膏《ずつうこう》が、いっそなまめかしいのである。 「いや、これは冗談だが、さぞやゆうべは怖いことだったろうなあ」 「いえ、それが、あたしもお芳さんもよくねてしまって、けさこの字を見るまでは、少しも気がつきませんでした。ねえ、お芳さん」  女中のお芳もうなずいて、 「ほんに目がさめなくて仕合わせ。目がさめたら、どんなに怖いことでしたでしょう。小花さんは、けさこの字を見ただけでも、びっくりして、気をお失いになられたほどですもの」 「なんや、そんなら小花はんは、この字を見て気を失わはったんかいな」 「あい、あんまり気味が悪うございますもの」 「いや、女の身としてむりもねえ。しかし、もう心配することはねえぜ。親分がおいでなすったからにゃ、自来也であろうが熊坂《くまさか》であろうが、すぐ引っくくってしまいます」  辰と豆六、さかんに根掘り葉掘り、小花とお芳をあいてに、ゆうべのことを聞いているが、佐七はそういう話もうわのそら、なんだかこの屋敷のなかに気になるものがある。  床の間のかまえ、床柱のおもむき、地袋《じぶくろ》の紙のぐあい、天井の網代《あじろ》、はてなと佐七はあたりを見回すのだが、なにがそんなに気になるのか、佐七自身にもよくわからない。それでいて、なにか妙に胸をそそられるものがあるのだった。  結局、小花もお芳も、くせ者のかげさえ見なかったというのだから、手がかりの引きだせるはずはなかった。  それからまもなく、人形佐七は妙にわり切れない心持ちで寮をでて、川岸の通りまでやってきたが、そのときだった。  むこうからきかかった二十六、七の色白の、ちょっと小意気なわかい男が、佐七をみるとにわかに顔をそむけていきすぎた。 「おや、野郎、いやなまねをしやアがる」  佐七がそっとふりかえると、わかい男はそわそわと、あとさきを見回しておいて、すばやく寮のなかへとびこんだから、 「おい、辰」 「へえ、へえ」 「てめえ寮へ引っ返して、いまとびこんだ野郎の身もとをあらってこい」 「おっと承知」  辰はすぐさま寮へ引き返して、女中のお芳を呼びだして、なにやらごそごそ聞いていたが、やがて恐ろしくふくれっ面をしてかえってくると、 「ちょっ、おもしろくもねえ。小花というやつ、あんなしおらしい顔をしながら、とんだくわせ者だ。病気保養にかこつけて、ああいう男をひっぱりこんでいやアがる」 「えっ、ほんなら、あれが小花の男かいな。あほらし、そんなことなら、さっきあないに親切にしたるんやなかったな」 「はっはっは、とんだご愁傷さま。それゃあいてはああいう稼業の女だ、男のひとりやふたりはあるだろう。しかし、あいつはどういうやつだえ。お店者《たなもの》ではなし、仕事師ともみえねえし」 「大工ですよ。浅草門跡まえにすんでいる巳之助《みのすけ》という野郎で、小花とはよっぽどふかいなじみらしい」 「ああ、大工か、女にほれられそうな稼業だ。岡《おか》っ引《ぴ》きの子分とはわけがちがわあ」  佐七はそれきり、巳之助のことをわすれてしまった。というのは、それからまもなくつぎつぎと、なんともいえぬ妙なことが起こったからで。  解けるなぞ五十ちょうちん   ——なぞの意味はハナカワド  ちょうど昼時刻だったので、橋場通りにある寿々本《すずもと》といううなぎ屋へあがって、ちょっと一杯やった三人が、そこをでたのは小半刻《こはんとき》ほどのちのこと。  ほろ酔いのほおを秋風に吹かれながら、ぶらりぶらりとやってくると、 「畜生! ほんとに、なんというやつだろう。いまいましいったらありゃしない」  門口に立ってブツブツいってる女がある。みると、遊芸の師匠らしいのが、額に青筋立ててぷりぷりしているから、こういうところをみると黙ってはいられないのが辰の性分で。 「こうこう、師匠、色気のねえ。表へ立ってなにをそんなにぼやいているんだ」  女師匠はすぐにあいての身分を察したらしく、 「これは、親分、まあ、聞いておくんなさいまし。さっきわかい男が、門口をうろうろしていると思ったら、だしぬけに、このご神灯に手をかけて、こんなに破っていきましたの」  みると、格子の外にかかったちょうちんが、常磐津文字常《ときわずもじつね》と書いたところが一カ所やぶれて、常磐津文○常となっている。 「なんだ、あんまりひどいけんまくだから、どんなごたいそうなことが起こったかと思ったら、たったそれきりのことかえ」 「だって、親分、ご神灯に傷をつけられちゃ、縁起がわるいじゃありませんか」 「いや、これというのも、師匠があまりきれいだから、いたずらがしてみたくなったのだろう。わかい者のことだ、まあ堪忍してやんねえ」  佐七の一行はそのまま笑っていきすぎたが、へんな出来事はそれだけではすまなかった。  文字常の家から一町ほどくると、一軒のそば屋があって、頭のはげた亭主《ていしゅ》が、十二、三の小娘をつかまえてこっぴどくしかっている。それを見てつかつかとなかへ割りこんだのは豆六だ。 「どないした、どないした。おっさん、なにもこんな小娘に、そないな手荒いことせえでもええやないか」 「いえもう、こいつがぼんやりだから、こんないたずらをされますんで、まあお聞きくださいまし。さっき妙な男がここをうろうろしているもんですから、こいつに気をつけろと申しておきましたので。それだのに、こんないやないたずらをされまして、いまいましくてしようがありません」 「だって、おとっつぁん、あっという間で、とめるまもなにもなかったんですもの」  小娘はしくしく泣いている。  佐七はおやと、うしろのほうで小首をかしげている。 「まあええ、まあええ。泣かいでもええがな。それで、おっさん、いたずらてなにしよったんやねん」 「それがあなた、だいじの看板に傷をつけられて、これじゃ表に出してはおけません」  みると、虫食いの舟板が一カ所そぎおとされて、更科《さらしな》と彫ったしたが、風○庵と一字だけ抜けている。佐七はにわかに目をそばだてて、 「とっつぁん、おまえの家の屋号はなんというんだえ」 「へえ、風来庵というんですが、来という字が、まるっきり台無しにされてしまいました」  佐七は、さっとおもてを緊張させて、いたずら者の年輩風体をたずねてみると、どうやら文字常のところのやつとおなじ男らしいのである。 「辰、豆六、こいつはどうも気にかかる。こんないたずらがまだほかにもあるかもしれねえから、ふたりともよく気をつけていろ」 「へえ、そやけど、親分、いったいこらなんのまじないだっしゃろ。バカか、気違いだっしゃろか」 「ふむ、バカでも気違いでもねえ。それよりずんとはしっこいやつだ……や、ありゃアなんだ」  みると、むこうに大勢ひとだちがして、女がひとり気違いみたいに叫んでいる。  三人がなにごとならんとかけつけると、そこは矢場のまえだったが、道のうえには矢がいちめんに散乱している。  佐七はこれを見るとううむとうなって、 「ねえさんや、これはいったいどうしたんだえ」 「おや、これはお玉が池の親分さん」  矢取り女は、佐七の顔を知っていた。くやしそうに歯ぎしりしながら、 「ほんとに憎らしいじゃありませんか。たったいま、わかい男がはいってきたので、客だとおもっておあいそをしていたら、ま、どうでしょう。だしぬけに矢壺《やつぼ》のなかから、矢をみんな引き抜いて、それをパッとこのように、道じゅうにまきちらして逃げてしまいました。あたしもうくやしくて、くやしくて……」  と、目に涙さえうかべている。 「ふむ、して、して、そいつはどっちへいった」 「はい、そこの横町へ逃げこみました」 「よし、辰、豆六、こい!」  血相かえてかけだす佐七のようすに、辰も豆六もあわをくってあとを追いながら、 「親分、ま、まあ、待っておくんなさいよ。あっしにゃさっぱりわけがわからねえ。こ、こりゃアいったいどういうわけで」 「辰、まだわからねえのか。さいしょが文字常の字だ。つぎが風来庵の来の字で、さいごが矢場の矢だ。これをひとつに読むとなんになる」 「字——来——矢……あ、自来也や」 「わかったか。わかったら遠くはいくめえ。そのいたずらもんをとっつかまえるんだ」  だが、それらしい若者は、もうそのへんには見えなかった。  あちらの辻《つじ》、こちらの小路と、しらみつぶしに探していったが、若者の姿はみえずに、バッタリ出会ったのは、白い着物に袴《はかま》をはいた、どじょうひげの小男だった。 「もし、ちょっとお尋ねいたしますが、これこれかようの若者をお見かけじゃございませんか」  と尋ねると、どじょうひげはたちまちいきり立ち、 「おお、その若者なら、わたしもいま探しているところだ。いや、もうとんだいたずらをするもんだ」 「へえ。すると、あいつがまたなにかやりましたか」 「やるもやらぬも、まあ、聞いてくだされ。わたしゃそこのお杉稲荷《すぎいなり》の堂主だが、さっきその若者がとびこんできて、あっというまに、おまえさん、ちょうちんを五つまでたたきおとして逃げおった。いやもう、憎いやつじゃありませんか」 「へへえ、またやりましたか。その男についちゃ、あっしにも少々心当たりがあります。もし、おまえさん、その狼藉《ろうぜき》の跡をひとつ見せてくださいまし」 「おお、遠慮なくごろうじろ」  お杉稲荷というのは、そのかいわいでのはやり神、赤い鳥居やおさめ手ぬぐいがひらひらしている奥の、ひろいお籠《こも》り堂のなかには、線香の煙がうずをまいて、ひくい天井にはぎっしりちょうちんがぶらさがっている。 「なにしろ、ここは暗いから、昼でもああしてちょうちんに灯をいれておくんですが、それをおまえさん、あれ、あのように目茶目茶にしていきました。ほんとにもういまいましくて」  かぞえてみると、ちょうちんは十ずつ五列にならんでいたが、そのうち、あちこちたたきおとされて、灯の消えているのが、歯の抜けたように寂しかった。 「親分、こんどはどういうなぞでしょう」  佐七はしばらく腕こまぬいて天井をにらんでいたが、やがてポンと小手をうち、 「わかった。辰や、よくみねえ。このちょうちんは十ずつ五列にならんでいる。つまり、アイウエオとおなじ配列だ。いちばんうえの列がアカサタナハマヤラワ、右のはしの五つがアイウエオとすると、抜けてる個所はなににあたるか勘定してみろ」 「へえ、すると上の右から二番目は、アカサタナのカ、五番目はナの字で、おつぎも抜けておりますが、こうっと、これはハですな」 「そや、そや。そして、いちばんおしまいも抜けてるさかい、これはワの字になるんやろ。もうひとつ一番下の段の右から四番目が抜けてまんな。あれはこうっと、オコソト……あ、トの字に当たりよる。そうすると、みんなでカナハワト、なんや、ちっともわけがわからへんがな」 「そいつをなんとか、意味のわかるように組み合わせるんだ。カナハワト、トワハナカ、ワハナカト、ハナカワト——、はなかわと、おや」  と、目をかがやかせた人形佐七、しめたとばかりに両手を打って、 「辰、豆六、わかった、わかった。こいつははなかわど、花川戸と読むんだぜ」  鬼甍《おにがわら》のなかから現れたのは   ——お、お前は巳之助《みのすけ》じゃないか  その夜更け。花川戸の辻《つじ》から辻へと、忍び姿でうろうろ、きょろきょろ、歩きまわっている三人づれ、いうまでもなく人形佐七にふたりの子分だ。 「親分、親分、こうしてみれば花川戸もずいぶんひろうござんすね。ただ花川戸とだけじゃ、どこの家だか見当もつきゃアしねえ」 「わてももう足が棒になってしもた。あほらし。ひょっとすると、あのなぞを読みちごとるのんとちがいまっか。そやったら、こんなバカらしいことおまへんで」  辰と豆六、そろそろ愚痴が出はじめた。  間違いはないとおもうが、佐七にも花川戸とだけじゃ心もとない。  今宵《こよい》、花川戸でなにかおこるというなぞと、あのちょうちんのひめた文字を読んだのだが、きてみると辰のいうとおり花川戸もひろかった。 「辰、もう何刻《なんどき》くらいだえ」 「へえ、さっき浅草の鐘が九つ(十二時)を打ちました。もうそろそろ丑満時《うしみつどき》でございましょうよ」  自来也が忍びこむのはいつも丑満時、なにか事件がおこるとしたら、もうそろそろその時刻だが、それにしても、わからないのはさっきのなぞだ。  あの若者というのは、いったい何者だろう。なんのために、ああいういたずらをやったのだろう。  仲間にしらせる合図のなぞか。それならなにもあのように回りくどいことはせずともすむはず。ひょっとしたら……と、佐七はふいにぎょっとする。  ひょっとしたら、あのなぞは、じぶんをここへおびきよせるためのもくろみではあるまいか。そう考えると油断は禁物、佐七はピタリと土塀《どべい》のかげに体をすりよせ、きっとあたりを見まわしたが、そのときふいに、どきっとばかりに目をみはった。 「辰、豆六、あれを見ろ」 「へえ、へえ、なんでございます」 「むこうにみえるあの屋根のうえだ」 「あのお屋敷の屋根のうえ? はてな、なんにも見えやしまへんがな」 「てめえたち、あれが見えねえのか。ほら、あの屋根のうえにゃ、鬼甍がおいてあらあ」  なるほど、ほのあかるい夜空のなかに、くっきり黒くそびえ立った屋根のうえには、鬼甍がひとつ、奇妙なかっこうをしてこちらをむいている。 「親分、あの鬼甍がどうかしましたかえ」 「てめえたち、まだわからねえのか。自来也がいちばんさいしょにあらわれた芝金杉の雁阿弥《がんあみ》屋敷、二番目にしのびこんだ石町の隠居所、また三番目におそった蔦《つた》の家《や》の寮、みんな屋敷には、あれとおなじ鬼甍《おにがわら》がおいてあったぜ」 「あっ!」  と、辰と豆六がおもわず息をのんだとき、奇妙なことがそこに起こった。  夜露にひかる鬼甍が、ぽかりとふたつに割れたかとおもうと、なかからあらわれた黒い陰が、屋根づたいにするすると、こちらのほうへやってくる。 「や、自来也!」 「しっ、静かにしろい。むこうはまだ気がついちゃアいねえ。おりてきたらつかまえろ」  かげをつたってむこうの屋敷の土塀の下にピタリと身を寄せていると、くせ者はそうとはしらず、みしりみしりと、甍をふむ音がちかづいて、やがて甍に腹ばいに、ひょいと下をのぞいたが、とたんにパッタリ佐七と視線があって、 「あ、われア大工の巳之助だな」  意外にも、そのくせ者は、きょう橋場の寮の小花のところで見かけたあのいい男の巳之助だった。  巳之助はしまったとばかりに、すっくと屋根に立ちあがると、そのままたらたら甍をつたって屋根から屋根へと逃げていく。  なにしろ、大工だけあって、そういうことには慣れている。速いことは驚くばかりで、みるみるうちに佐七はその姿を見失ってしまった。 「辰」 「へえ、へえ」 「てめえは浅草門跡まえへ先回りして、巳之助がかえってきたらふんづかまえろ。豆六!」 「へえ、なんだす」 「てめえは橋場の蔦の家の寮へいって、小花をすぐに挙げてこい」 「おっと、合点や。あのいまいましい小花のやつめ」 「そうだ、そうだ、豆六、ぬかるな」  恋の遺恨はおそろしい。辰と豆六が夜道のなかをいちもくさんにかけだしたあと、佐七はひとり、いや、巳之助がはいだしたあの鬼甍のお屋敷をたたきおこした。  このお屋敷は向井九十郎というお舟手役人の下屋敷で、その夜あるじの九十郎は、ほろ酔いきげんでぐっすり寝こんでいたが、佐七にたたき起こされて、不承不承におきてくると、 「くせ者がしのび込んだと申すが、まことのうえか」 「へえ、たしかに間違いございません。どうぞご寝所をおしらべくださいまし」 「よし、そのほうもついてまいれ」  ふたりが寝所へいってしらべると、細かくしらべるまでもない。  佐七がかかげた手燭《てしょく》の灯に、ありあり照らし出されたのは、ふすまのうえに書きのこした『自来也』という左書きの三文字。  だが、そのとき、佐七がふうむとうめいたのは、その字のせいではなかったらしい。  床の間のかまえ、地袋《じぶくろ》のふすま模様、床柱の配合、網代《あじろ》天井——そのお屋敷のつくりは、大小のちがいこそあれ、いままで自来也におそわれた三軒の家のつくりにそっくりそのまま。  佐七はようやくそれに気がつき、思わずどきりとした目つきだった。  島送りになった棟梁湖竜斎《とうりょうこりゅうさい》   ——親の敵を討ってくだされたく  佐七にはなにがなにやら、わけがわからなくなった。  いままで自来也におそわれた四軒の家が四軒とも、おなじ鬼甍《おにがわら》に、おなじつくりの座敷をもっている。というのは、いったいどういうわけだろう。  自来也はあらかじめ、そうして忍びこみやすい家をほうぼうへ建てておいたのだろうか。  そこで、佐七が思いだしたのは大工の巳之助。なるほど、大工ならそういう芸当ができなくはないが、どうかんがえても巳之助は若過ぎる。  古さからみて、四軒の家は十年からすくなく見積もっても七、八年はたっている。そのじぶん巳之助はまだ二十《はたち》まえだ。いくらなんでも、そういう若さで、家の設計などおもいもよらぬ。せいぜい柱を削っているのが関の山。  それにしてもわからないのは巳之助だ。このあいだのなぞのぬしは、どうやら巳之助だったらしく思われる。巳之助が自来也なら、なにもあんなことをしてじぶんに悪事の予告をすることはない。  かくして、佐七がとつおいつ思案にくれているところへ、かえってきたのは辰と豆六だった。 「親分、どうもいけません。巳之助も小花も、いまだにもって皆目《かいもく》ゆくえがわかりません」  あの夜、辰と豆六が手分けして、浅草門跡前と、橋場の寮へ踏みこんだときには、ふたりははやくも風をくらって逃げていた。 「ふむ、まあ、すんだことは仕方がねえ。ときに、豆六、小花という女の素性はわかったかえ」 「へえ、わかりましたが、親分、あいつはたしかにくわせもんだっせ。あいつのおやじちゅうのんからして、凶状持ちやちゅう話だす」 「なに、凶状持ち? いってえどういう野郎だ」 「へえ、湖竜斎政五郎《こりゅうさいまさごろう》ちゅうて、むかしは名高い大工の棟梁《とうりょう》やったそうだすが、七年まえに悪事がばれて、いまでは八丈島へ送られてるちゅう話だす」 「なに、湖竜斎政五郎? それがあの小娘のおやじか」 「へえ、さよさよ。おやじが島送りになったとき、小花は十四やったそうだすけんど、悪いやつの手にかかって、とうとう柳橋へ売られたんやそうだす。あの巳之助ちゅうのんは、その政五郎の弟子で、そのじぶんから、小花とふかく言い交わしてた仲やちゅう話だっせ」 「湖竜斎政五郎? ふうむ」  しばらくふかい思案にくれていた人形佐七、ふいにはったと両手をうつと、 「わかった、わかった、なにもかもわかったぞ。辰、豆六、てめえたちふたりは手分けして、いままで、自来也に押し込まれた四軒の家を建てたのは、どこの大工か調べてこい」 「へえ。そして、親分は?」 「おれは神崎さまのお屋敷へ伺っているから、わかったら、ふたりともそっちへまわれ」  と、それからまもなく人形佐七がやってきたのは、八丁堀の、与力神崎甚五郎のお屋敷だ。  すぐ甚五郎にお目通りを許されると、 「だんな、ちとおもう子細があって、七年まえの湖竜斎政五郎の一件と、そのじぶんの自来也一件のお調べ書きがしらべてみとうございます。お係のかたに、どうぞおことば添えくださいまし」 「よいよい、すぐ取り寄せてつかわそう」  佐七の顔色から、なにか当たりがついたのだなと、はやくもさっした甚五郎、すぐさま当時の記録を取りよせた。  佐七はそれをいちまい、いちまい、丹念に調べていたが、やがてにっこり甚五郎の顔をあおいで、 「だんな、やっと自来也の正体がわかりましたよ。自来也というのは、七年まえにほかの罪で島送りになった湖竜斎政五郎にちがいございません」 「なに、あの湖竜斎が自来也とな」 「さようでございます。湖竜斎政五郎がご法度のつり天井をつくったというかどで捕らえられたのが七年まえの五月六日。すると、そのまえの晩まで暴れまわっていた自来也が、その日以来ぴたりと消息をたっております。ところで、だんな、先月でしたか八丈島の島役人から、たしか政五郎が島破りをしたとお届けがありましたねえ」 「おお、それじゃこんどの自来也も……」 「さようで、政五郎にちがいございません。これじゃ、自来也の正体がわからなかったのもむりはない。お役人衆が血眼になって、自来也の詮議《せんぎ》をしているじぶん、当の自来也はつり天井一件というまったくなんのかかりあいもねえ罪で、八丈島へ送られていたんでございます」  こんな話をしているところへ、あわただしく駆けこんできたのは、辰と豆六だ。 「親分、わかりました、わかりました。いままで自来也の押し入った四軒の家が四軒とも」 「小花のおやじの湖竜斎政五郎がつくったもんやそうだっせ」  佐七は、にんまりわらって甚五郎にうちむかい、 「だんな、お聞きおよびのとおりでございます。島からかえってきた政五郎が荒らしまわっているのは、みんなその昔、じぶんの建てた家でございます」 「それにしても、おかしいではないか。このたびの自来也は、忍びこんでも持ち去るものは、鈍刀《なまくら》だの、印籠《いんろう》だの、銀のかんざしだの、つまらぬ品ばかりだ。これはいったいどういうわけだ」 「はっはっは、まだおわかりじゃございませんか。鈍刀や印籠やかんざしは、世間をあざむくからくりで、自来也はもっと大事なものを持ち去っているはずでございます」 「大事なものと申すと?」 「だんな、政五郎はご法度の、つり天井をつくるほどのしたたか者、じぶんのつくった家に、抜け道やどんでん返し、さては、隠し戸だななどをつくるくらいは朝飯前。そういう隠し戸だなのなかへ、むかし盗んだ千両箱を隠しておいたのを、島からかえって盗み出しているのでございましょう」 「それだったら、親分」  と、そばで聞いていた辰が、にわかにひざを乗りだすと、 「自来也をつかまえる機会はまだありますぜ。あっしゃさっき、政五郎の弟子だった男にききましたが、そのじぶん政五郎のつくった家は、あの四軒のほかにもう一軒あるそうです」 「して、して、それはどこだ」 「ところが、そいつも、その一軒だけはどこにあるのか知らねえんで」 「なんだ、知らねえのか。知らなきゃなんにもならねえ」 「そやけど、親分、政五郎のつくった家には、みんな目印の鬼甍があるやおまへんか。それを目当てに探してみたら」 「べらぼうめ、あてもないのに江戸じゅう探せるものか」  佐七ががっかりしているところへ、 「あの、佐七様へこのようなお手紙が」  腰元が持ってきたのは、なまめかしい天紅の封じ文。はてなと、佐七はあわてて封を切ったが、読んでいくうちに、みるみる顔色がさっと変わった。 [#ここから2字下げ] ひと筆しめしまいらせ候。親分さまのお手により、親のかたきを討っていただきたく、巳之さんに頼んでこのあいだ花川戸へ手引きまいらせ候かいもなく、取りにがしたるざんねんさ、ちち政五郎のその昔たて候建物は、もう一軒谷中の弁天堂、このたびこそは必ず必ずおとり逃がしなさるまじく、首尾よく親のかたきを討ってくだされたく、こればかりがよみじのさわりにござ候。巳之さんといま旅立つ死出の山、三途《さんず》の川をわたるまえ、取りいそぎあらあらかしこ。  佐七親分さままいる 小花 巳之助 [#ここで字下げ終わり]  賽銭箱《さいせんばこ》がパックリ開いて   ——意外、意外、自来也の正体は  ここは谷中の弁天堂、雨もよいのおぐらい空に、上野の森がくっきりとそびえて、ふくろうの声、ごいさぎの鳴きわたる声。  上野の鐘が九つ(十二時)を打って、夜はもう深更。  くもの巣だらけの弁天堂のなかには、さきほどから黒い影が一つ二つ三つ四つ、もくもくとうごめいて、おりおり、天井を駆けまわるねずみの音がけたたましく、そのたびにぱらぱらと細かいほこりが降ってくる。 「それにしてもわからぬではないか」  押しころしたような声でささやくのは、たしかに神崎甚五郎。してみると、ほかの三人は、人形佐七にふたりの子分、辰と豆六にちがいない。 「そのほうの話によると、自来也は政五郎であるという。しかるに、さっきの小花のふみに、親のかたきとあるからは、政五郎はとっくに死んでいるにちがいない。しからば、自来也とは何者か。湖竜斎政五郎でないことだけはたしかだの」 「だんな、あのふみにはあっしも驚きました。いろいろ考えまよいました。しかし、だんな、やっぱりあっしの考えにゃ間違いはねえんです。自来也とは湖竜斎政五郎に相違ございません」 「だが、政五郎はすでに死んでいるというではないか」 「まあ、まあ、待ってくださいまし。いまになにもかもわかります。あっしもあのふみをよんで、はじめてなぞがとけたんですが、いまはなにも申しますまい。辰、豆六」 「へえ」 「油断をするな。あいてはなかなかしたたか者だから、なめてかかると、とんでもねえけがをするぞ」 「合点です」 「さっきから、うんとふんどし締めてまっさ」  豆六は武者ぶるいするような声だった。 「よし、それじゃ口を利くんじゃねえぞ。だんなも、あっしが合図するまでは、口をつぐんでいてくださいまし」 「よしよし」  ぴたりと話がとぎれると、四人のかげは弁天堂の内陣のうるしのやみにつつまれて。——風が出たのか、おりおり風鐸《ふうたく》のゆれる音。  ——と、そのときどこかで、ごとりとかすかな物音がした。  一同おもわずごくりと生つばをのむ。——ねずみの音か。  いや、そうではなかった。つづいて、みしりみしりと聞こえるのは、だれかが天井をわたる音。  やってきたのだ、自来也が。  佐七はあわてて懐中の十手を握りなおしている。  ほかの三人もめいめいに、暗やみのなかで音もなく、身ごしらえにいそがしい。  すわといえば、いつでもとび出せるかまえである。  天井の足音はまもなくやんで、またもやどっと風鐸をゆすぶる風の音。  いちどうがかたずをのんで待っていると、ごとりとかすかな物音、しかもこんどは意外にも、四人のごくちかくだったから、いちどうははっとして首をちぢめた。  と、そのとたん、こはそもいかに、つい目と鼻のさきにあるふとい朱塗りの柱が、まんなかからポカリとふたつに割れて、その中からヌッと出てきたのは、龕灯《がんどう》片手に、黒装束のくせ者だ。  あいにく、顔は覆面にかくれてみえない。  くせ者は龕灯をあげて、そっとあたりを照らしたが、さいわいかくれている四人まで、その光はとどかなかった。  くせ者はかすかにうなずき、そろりそろりと忍び足でちかづいたのは拝殿のまえ、なんとなく気になるようすで、内陣のやみをのぞいていたが、やがて思いきったように手をかけたのは、畳三畳敷きもあろうとおもわれる大きな賽銭箱《さいせんばこ》だった。  龕灯のあかりであちこち照らしてみて、 「ふうむ」  と、会心の微笑をもらすと、ふところから取りだしたのは一枚の絵図面、龕灯のあかりでその絵図面と賽銭箱を見くらべていたが、やがてあちこち賽銭箱をなでまわす。  と、そのうちにだしぬけに、がたりと大きな音がして、賽銭箱の側面がひらいたが、見ると、それは二重底になっている。  くせ者がさっとその二重底を照らすと、やみの中からうかんだのは。——  さすがのくせ者も、それを見たとたん、 「わっ!」  と叫んでうしろにとびのいた。  それもそのはず、二重底の賽銭箱のそのしたには、男と女がおり重なってうつぶしている。  くせ者はしばらくわなわな震えていたが、やがてそっとふたりの体に指をふれ、 「おお、死んでる」  死んでいれば、恐れることはないと思ったのか、ふたりの体を押しのけて、しばらくそのへんを探していたが、やがてズルズル引きずり出したのは、まぎれもなく千両箱ひとつ。  そのとたん、 「御用だ!」  しまったと、くせ者は振りむきざま、ずらりと抜いた大だんびら。 「御用だ、御用だ、神妙にしろ」 「御用や、御用や、御用やぜ」  奇妙な声をあげてとびこんだのは豆六。  くせ者はすかさず一歩しりぞくと、 「うぬ!」  さっと振りおろした刀の下、あわれ豆六、真っ二つになったかと思った瞬間、横あいからとび出したのはきんちゃくの辰。  これがいきなりくせ者の腰に武者ぶりついたから、ねらいはわずかに外れて、 「うわ!」  その場にへたばった豆六、ちょっと小鬢《こびん》をかすられただけであやうく命は助かった。  くせ者は辰をふりほどこうとするが、おっとどっこい、辰五郎はすっぽんの性で、食いついたがさいご、首がちぎれても離れない。  くせ者は気をいらって、 「うぬ」  刀をさかてに突きおろそうとしたときだ。ぴしり! 佐七の放った捕りなわが、きりりと手首にからみついて、 「えい!」  佐七の掛け声もろともに、くせ者ときんちゃくの辰、組みついたままもんどり打って床へ倒れる。そこへ躍りかかったのが豆六で、 「こん畜生。ひどいやつや」  刀をもぎとると、ポカポカポカ、さっきの腹いせのつもりらしい。  佐七はすばやくなわをかけ、 「だんな、どうぞ、こいつの顔をごらんくださいまし」  ぱらりと覆面をとったその顔を見て、 「あ、こ、これは磯貝雁阿弥《いそがいがんあみ》」  いかさまそれは、さいしょに自来也におそわれたと届けてでたあの刀の鑑定家、浪人くずれの磯貝雁阿弥ではないか。 「それじゃ、佐七、自来也とはこの雁阿弥か」 「さようで。左書きの自来也は、この雁阿弥にちがいございません。しかし、ほんものの自来也は、やっぱりあの湖竜斎政五郎」 「しからば、その政五郎はどこにいるのだ」 「だんな、まだおわかりじゃございませんか。雁阿弥の家で殺されていたズタズタの死体、あれがすなわち自来也政五郎」 「なんと申す」 「政五郎は島からかえると、かわいい娘が柳橋で気にそまぬ芸者づとめをしている。それを受け出してやろうと、昔かくしておいた金を取りだしに、まずいちばんに忍び込んだのが雁阿弥の家」 「それを雁阿弥のために、あべこべにやられたと申すのか」 「さようで。そのとき政五郎が、むかしたてた家の絵図面をもっていたところから、雁阿弥は政五郎の秘密をしったんですね」 「それで、お妻としめしあわせて、どろぼうは二人組だったなどと、われわれを欺いたんだな」 「さようでございましょう。みずから自来也になりすまし、政五郎のかくしておいた千両箱を盗んでまわるには、死体の身もとがわかっちゃまずい。そこで、顔をズタズタに切りきざみ、右の手首を切り落としたんです」 「右の手首を切り落としたのは、そこに島送りの入れ墨がはいっているからだな」 「そういうことでございましょう。また、あの左書きは、じぶんの筆跡をくらますため。どうだ、雁阿弥、ちがいあるめえ」  雁阿弥はすでに観念していたのか、目を閉じたままうなずいている。 「それにしても、ふびんなは小花、巳之助、小花は病身のうえおやじがむざんに殺されても、はれてかたきもうてぬ悲しさから、とうとう死ぬ気になったのでしょう。辰、その龕灯をかしてみろ」  佐七が取りあげた龕灯の光のなかに浮かびあがったふたりの男女。  まぎれもなく、それは小花と巳之助、ふたりともひざをくくって、みごとのどをついていた。  親と師匠の悪事の跡で、みごと心中をとげた小花、巳之助のあわれな物語には、その当時、涙をしぼらぬものはなかったという。     河童《かっぱ》の捕り物  舟を追うかっぱ   ——きれいな娘に魅入るといいますぜ  江戸が東京となって七十余年、江戸の面影はあますところなく打ちこわされたが、なかでも江戸の世界にあって、げんざいまったく影をひそめたものに、たぬき、かわうそ、かっぱの類いがある。  もっとも、かっぱなどは江戸時代にだって、じっさいにいたわけではないが、それでも、全国いたるところに、かっぱ伝授の金創膏《きんそうこう》だの、かっぱのわび状文などという奇抜な伝説がのこっている。  そのじぶんのひとが書いたものをみると、ひとくちにかっぱといっても、これに二種類あって、背中に甲らのあるのが水とら、甲らのないのがほんとうのかっぱだそうで、利根川《とねがわ》などにすんでいたのは甲らのないほう、つまり、正真正銘まがいなしのかっぱだったということである。  さて、かっぱの講釈はこれくらいにしておいて。  ここに神田お玉が池の佐七の子分、きんちゃくの辰にお源という伯母《おば》がひとりあって、本所のほうにすんでいることはいつかも話したとおりだが、ある日、そのお源がひょっこりやってきた。 「あねさん、毎日よく降ることでございます」 「おや、だれかとおもえば辰つぁんの伯母さん。ほんとにこの秋はよく降ります」 「まったく、くさくさしてしまいます。わたしどもにとってはこの雨が大敵で」  お源はしかたなさそうに笑っていた。このお源というのは両国のおででこ芝居の三味線弾きをしているが、葭簀張《よしずば》りの仮小屋のことだから、雨が降ると芝居はおやすみ。  お粂も同情するようにまゆをひそめて、 「ほんにいやな雨だねえ、まああがんなさい。ちょうど辰つぁんもいるからさ」 「はい、それではご免こうむります。そして、親分さんは?」 「おくでお昼寝、ほっほっほ、ここんところ、御用もひまなうえに毎日のこの雨で、大の男が三人、からだをもてあましているんですよ。伯母さん、なにかおもしろい話はありませんか」 「はい、それについて、少々親分さんのお耳にいれたいことがございまして」 「おや、そう、それはありがとう。ちょいと、おまえさん。お源さんがおいでだよ。辰つぁんも、豆さんもおりておいでな」  さすがにきんちゃくの辰を甥《おい》にもっているだけあって、お源も世間のできごとに無関心ではなかった。ときにはめずらしい聞き込みをしてくることがあるから、佐七もお源がきたときくと、すぐおくから顔をだす。  辰も豆六もおりてきた。 「お源さん、おいでなさい。いまむこうで聞いていりゃ、おいらに話があるということだが、どういう話だえ」 「はい、それがまことに奇妙な話で……親分さん、かっぱがひとに魅入るというのは、ほんとうのことでございましょうか」  と、真顔でいったものだから、佐七はじめ一同は、おもわずお源の顔を見なおした。  佐七もそのじぶんの人間だから、かっぱの存在を否定するほどの知恵は持ちあわさなかったが、それでもじっさいに、かっぱがひとに魅入ったというような例にぶつかったことはいちどもなかった。 「お源さん、かっぱがどうかしたというのかえ」  と、そこで佐七がひざをすすめると、お源の話はこうである。  お源の家のすぐちかくに、山口屋という大きな袋物問屋がある。近所でも、ひとにしられたものもちだが、この山口屋のひとり娘でお糸というのが、近所でもひょうばんの小町娘。そのお糸にちかごろ縁談がさだまった。  あいては、なんでもご大身《たいしん》の嫡男とやらで、器量望みでお糸を懇望してきたのだが、そのじぶんのことゆえ、武士と町人の縁組みは、表向きにはできにくい。いったんどこかの武家の養女になるか、武家の仮親をたてるか、どちらかの方法をとらねばならない。  そこで、お糸はいったん家をでて、柳島の寮にひきうつり、そこで手つづきのすむのを待つことになったが、そのお糸のところへ、ちかごろ夜な夜なかっぱがしのぶ……。  と、こうお源は語るのである。  佐七はまゆをひそめてきいていたが、 「そいつは妙な話だが、お源さん、もう少しくわしく話してください。いったいだれが、そんなことをいい触らすのだえ」 「はい、わたしはお糸さんつきの女中、お君さんからきいたのですが、そのお君さんの話によるとこうなのです」  いまから半月ほどまえのことである。  柳島の寮にいるお糸は、ある日、綾瀬《あやせ》のほうへ舟遊山に出かけた。一行はお糸のほかに乳母のおもん、女中のお君、丁稚《でっち》の長松という四人、船頭の又蔵というのも、ながねん出入りのおやじだった。  その日はめずらしく天気もよく、お糸も久しぶりでよい気晴らしをしたと喜んでいたが、そのかえるさに変なことがおこったのである。  それは八つ半(三時)ごろのこと、舟が堀切《ほりきり》にさしかかったとき、 「おや、又蔵さん、あれはなんだ」  と、丁稚の長松がふなべりから身をのりだして、とつぜん、すっとんきょうな声をあげたのである。  一同がおどろいて、長松の指さすほうをながめると、むこうの葭《よし》のあいだから、なんともえたいのしれぬものが、ものすごい目でこちらをのぞいている。  水の中から首だけ出して、しかも頭には藻草《もぐさ》をかぶっているので、それがなにものであるか見当もつかなかった。人間といえば人間のようでもあったし、怪物といえば怪物のようでもあった。  なにしろ、こちらは女ばかりの舟のなかだ。お糸をはじめおもんもお君も、まっさおになってふるえあがった。  又蔵もおどろいて、櫂《かい》をふりあげると、 「しっ、しっ、あっちへいけ、このかっぱ野郎」  と、二、三度水のうえを打つまねをすると、得体《えたい》のしれぬ怪物は、じろりとものすごい一瞥《いちべつ》をのこして、水のなかに沈んでしまった。 「ああ、怖かった。又蔵さん、あれがかっぱというものかえ」 「そうですよ。この川筋にゃ、ときどきああいういたずら者が出るんです」 「まあ、気味のわるいこと。又蔵さん、はやく舟をやっておくれよ」  舟がその場を離れるにしたがって、みんなようやく生気をとりもどして、口々に、いまの怪物の怖かったことを語りあった。お君はたしかに、てんぐのようなとがったくちばしと、水かきのついた気味のわるい肢《あし》を見たといった。 「まあ、いやだねえ。それにしても、あのかっぱは、なんだってああしつこく、この舟を見ていたんだろうね」  おもんがまゆをひそめると、又蔵が笑って、 「そりゃお乳母さん、わかってるじゃないか。この舟にゃきれいなお嬢さんがのっているから、かっぱのやつめ、見とれていたんでさ」 「あら、いやだ」 「ほんとのことでございますよ。かっぱのなかにゃたちの悪いやつがあって、きれいな娘さんとみるとみいるということです。お嬢さんなんかも、気をつけなきゃいけませんぜ」  又蔵は笑ったが、それをきくと、お糸の顔がまたあおざめた。  おもんはまゆをひそめて、 「又蔵さん 冗談もたいがいにおしな。お嬢さんがあんなに怖がっていらっしゃるじゃないか」  又蔵もいいすぎたのに気がついたのか、あとは笑いにまぎらせたが、それからまもなく白髭《しらひげ》のあたりまでさしかかったとき、またしても丁稚の長松が、 「やあ、さっきのかっぱがついてくるぞ」  と、とんきょうな声をあげたから、お糸はあれえっと舟底につっぷした。  これには又蔵もおどろいた。みると、小半町ほどむこうの水のなかから、さっきの怪物が首だけだして、じっと舟を見送っている。 「畜生ッ、しつこいやつだ。あっちへいけ」  又蔵が櫂《かい》をふりあげると、怪物はまたもや水の中へもぐってしまって、それきり姿はみえなくなった。それからあとは変わったこともなく、舟はぶじに寮の裏手の堀《ほり》へついたが、お糸はすっかりおびえきって、口をきく勇気もなかった。  そして、その晩はろくに箸もとらずに、はやくから寝所へさがってしまったが、さて、その真夜中ごろのことである。  小町娘自害   ——婚礼をまえに控えて漆にかぶれ  おもんがふと目をさますと、お糸の部屋からボソボソと話し声がきこえる。しかし、その声のなかには、たしかに男の話し声がまじっているから、おもんはぎょっととび起きた。  なにしろ、嫁入りまえのだいじなからだ、お糸の身にもしものことがあってはならぬと、おもんは帯をしめなおすと、いきなりがらりと、あいのふすまを押しひらいたが、するとそのとたん、お糸の部屋から、ぱたぱたととび出したくろい影が、庭をよこぎり、裏木戸を越えると、ドボーンと水へとびこむ音がした。  おもんもすっかりおびえたが、それでもお糸が気になるままに、手探りであんどんにあかりをいれると、まず目についたのは縁側から座敷へかけて、いちめんにべたべたと付いているどろのあと、そして、なんともいえぬどろ臭いにおいがプーンと鼻をついた。  お糸はとみると、これはどろによごれた褥《しとね》のうえで、ぼうぜんとして目をみはっている。 「お嬢さま、お嬢さま、こ、これはどうしたのでございます」  おもんが詰めよるように尋ねると、お糸ははっと気がついたように、 「かっぱが……かっぱが……」  と、ただひとこと、そのままわっと泣きくずれてしまったのである。—— 「ふうむ」  と、これには佐七もおどろいてキセルの手をひかえると、 「それじゃ、お糸はじぶんの口から、忍んできたのはかっぱだといったんだな」 「はい」 「そして、その後もちょくちょく、かっぱのやつはかよってくるのか」 「どうもそうらしいんですよ。だれも姿を見たものはないのですが、どうかすると朝になって、お糸さんの部屋にどろの跡がついていることがあるそうです。それでいて、ふしぎじゃありませんか。おもんさんやお君さんが、どんなに起きていようと思っても、しぜんと眠ってしまうんだそうです。なにしろ、嫁入りまえのだいじなからだですから、山口屋さんでもこれを聞くと、ご夫婦ともたいそうおどろいて、さっそく寮へかけつけてきて、いろいろお糸さんを責めてみましたが、お糸さんはただ泣くばかりで、なんにもおっしゃらないそうです」  と、ふしぎそうにかたるお源の物語に、一同おもわずつばをのみこんだ。 「いったい、山口屋の夫婦というのはどういうひとだ。ひとに恨みをうけるような人柄かえ」 「いえ、そんなことはございますまい。ご夫婦ともよいひとで、近所のひょうばんも悪くないようです」 「お糸はどうだ。ほかにいい交わした男でもあるのじゃないか」 「いえ、お糸さんにかぎって、そんなことはございますまい」  お源はきっぱりいいきった。 「お糸さんは気立てのよいかたで、そんなふしだらなことをするひとじゃありません。それに、こんどのご縁談にもたいそう乗り気で、だからこんなことがご縁談の傷にならなければよいがと、お君さんも気をもんでいました」 「ふうむ。いったい、そのお君というのはどういう娘だ。そんな主人の内緒ごとを、ひとにしゃべってあるいているのか」 「いえ、あの、そういうわけではございません。わたしのほうから呼び込んで、いろいろカマをかけてきき出したのでございます。しかし、このお君さんが山口屋さんへ住みこんだには、ちょっと妙な話があるのでございますよ」  と、そこでお源が話すところによると、——  お君には、お袖《そで》という姉がひとりあって、三年まえに十七だった。そのじぶんには姉妹《きょうだい》の母親も生きていて、そのひとはわかい娘に裁縫をおしえて、細々ながら暮らしをたてていた。そこへお針のけいこにかよっていたのが、山口屋のお糸で、お袖、お君の三人は、姉妹のように仲よしだった。  ことに、お君はそれほどでもないが、お糸、お袖のふたりはそろいもそろって器量良しで、当時、本所のふたり小町といえば、ひょうばんだった。  ところが、そのうちに、お袖の身にふってわいたような幸運が訪れた。お糸のけいこ朋輩《ほうばい》として、しげしげ山口屋へ出入りをしているうちに、そのじぶんまだ生きていたお糸の兄の徳太郎というのに見染められ、たって嫁にと懇望されたのである。  お袖の母も、いったんはあまり身分がちがいすぎると辞退したが、山口屋のほうからしいての懇望、それにお袖もどうやら徳太郎をおもっているらしいようすに、とうとうこの縁談に同意した。  しかし、なにをいうにもまずしい一家、ろくな嫁入りじたくとてできないので、衣装道具万端は、山口屋のほうから送ることに話がきまった。こうして祝言の日がちかづくにしたがって、りっぱな衣装がおくられる。けっこうなお道具類がとどけられる。  お袖さんはとうとう玉の輿《こし》にのったと、近所でもうらやまぬものはなかったが、そのお袖が祝言のまえの日に、とつぜん、自害したのである。 「ほほう、どうしてまた、お袖は自害などしたのだ。なにかかくしごとでも現れたのか」  佐七は目をまるくしておどろいたが、それにたいするお源のこたえは、すこぶる意外だった。 「いいえ。お袖さんは漆に負けたのです」  山口屋からおくられた道具のなかには、まだ漆の乾ききっていない品が混じっていたらしい。それにさわったお袖は、一夜のうちに化け物のような顔になった。  あたら小町娘の花のかんばせが、漆かぶれで四谷怪談のお岩様のようにみにくく、おそろしく変わった。しかも、これがはれの祝言の前日のことである。  気のせまい娘がとりのぼせたのはむりもない。お袖は剃刀《かみそり》でのどをついたのである。 「ふうむ、それはかわいそうなことをしたものだな。そして、徳太郎はどうした」 「はい。その徳太郎さんは、そのとうざ、気が抜けたようにぼんやりしていましたが、それからだんだん気が荒くなり、家をそとに放蕩三昧《ほうとうざんまい》、あげくのはてにならず者の仲間にはいって、飲む、打つ、買うの三拍子、とうとう家を勘当されましたが、一年ほどのちにはけんかのあげく、切られて死んでしまいました」  まったく、人間の幸不幸ほどわからぬものはない。お袖、徳太郎の両人は、漆といういたずらもののために、幸福の絶頂から、不幸のどん底へ投げこまれ、おしむべし、花のつぼみをちらせたのである。 「お袖さん、徳太郎さんばかりではありません。お袖さんのお母さんも、これが原因でなくなりました。そこで、お君さんがひとりぼっちになったので、山口屋さんでもふびんがり、お糸さんのあいてにひきとってやったのでございます」  佐七はなにかうち案じているもようだったが、やがてまたお源のほうにむきなおると、 「そして、お糸という娘は、まだ柳島の寮にいるのかえ」 「はい。それが、ご両親がどんなに口を酸っぱくしてご本宅のほうへ連れもどそうとしても、ねっからお聞き入れがないのだそうで……よくよく、かっぱにみこまれたものだと、お君さんもふるえあがっておりました」 「いや、ありがとう、お源さん、めずらしい話をよく知らせてくだすった。これはほんの少々だが」  と、佐七の差しだす包み金をお源はいくどもおしいただいてかえったが、あとでは佐七はじめ、辰に豆六、それに女房のお粂もくわわって、四人四様の奇異のおもいで目を見かわしていた。  かっぱの正体応挙の軸   ——掛け軸の絵が抜け出して通うのです  その翌日は、ひさしぶりに雨があがると、すがすがしい秋晴れの空になった。  佐七は朝はやく、辰と豆六をひきつれて、お玉が池の家をでると、やってきたのは柳島。近所できくと、山口屋の寮というのはすぐわかったが、いかにもそれは大店《おおだな》の寮らしく、檜皮葺《ひわだぶ》きの風雅なかまえ。  うらへまわると、なるほどかっぱでもすんでいそうな堀があおくよどんでいて、かきねのなかからすがれた柳が、水のうえに枝を垂れている。  佐七は、ぐるりと家をひとまわりしたが、おりからそこへやってきたのは、五十がらみの人品のよい人物、いかにも大店《おおだな》のだんなといったかっこうのが、苦労ありげな顔色だった。  佐七はいったんそれをやりすごしておいて、すぐうしろから、 「あ、もし、おまえさんは、山口屋のだんなじゃございませんか」  呼びかけられた男は、はっとこちらをふりかえったが、三人の風体をみると、みるみる顔色をくもらせた。 「あ、もし、そのご心配にゃおよびません。あっしはお玉が池の佐七というもんですが、こちらさんの内緒ごとをほかへ漏らすようなものじゃございませんから、どうぞご安心くださいまし」  のっけからこう出られて、山口屋のだんなはしばらくとまどいしたような顔をしていたが、とっさに思案をきめたらしく、 「いや、恐れいりました。お玉が池の親分さんなら、お名まえはよく存じております。ここで会ったのはちょうどさいわい、親分さん、ちょっとそこへお寄りくださいませんか」  佐七にとっては、それこそ渡りに舟だった。  そこで、辰と豆六に目くばせしながら、治兵衛について寮のなかへはいっていくと、出迎えたのは丁稚《でっち》の長松。 「おお、長松、みんな家にいるか」 「はい、お君さんは妙見様へおまいりに出かけましたが、ほかのかたはみないらっしゃいます」 「そうか、それじゃこちらのお三人を、座敷のほうへご案内してくれ。親分さん、すぐのちほどお目にかかります」  三人が通されたのはけっこうな座敷。治兵衛はうちのものと相談しているらしく、しばらく待たせたが、やがて出てきたところをみると、ふたりの女をつれている。 「親分さん、こちらが女房のお久、むこうが乳母のおもんでございます」  お久というのは四十五、六、いかにも、ひとのよさそうなお内儀だったが、目をまっかに泣きはらして、苦労に腰もまがるばかり、乳母のおもんも、おりおり鼻をすすっている。 「いや、おうちさんもお乳母さんも、さぞご心配なことでございましょうが、そして、一件ものはちかごろでも、やっぱりちょくちょくやってまいりますので」 「いえ、それが……」  と、治兵衛はひざをすすめると、 「わたしどもがこちらへ引きうつってからは、たったいちどきたばかりでございますが、困ったことには、娘のやつが、どうしてもここを引きあげるのはいやだと、強情を張るのでございます」 「そして、お糸さんはやっぱり、忍んでくるのはかっぱだと申しますので」 「いえ、それがそれだとも、そうでないとも申しませず、ただもう、おろおろ泣くばかり……」  治兵衛はほっとため息をついたが、やがてまたひざをすすめると、 「そこへもってきて、ちかごろまた、ああいう奇怪な風説をバラまくやつがありますので……」  と、聞きずてならぬ治兵衛のことばに、 「はて、ちかごろの風説と申しますと?」 「おや、おまえさんはご存じじゃありませんか。お糸のところへ忍んでくるかっぱというのは、応挙の絵から抜け出してくると申しますので」  それをきいて、佐七をはじめ辰と豆六は、おもわずあっと顔見合わせた。 「だんな、それは初耳でございますが、その応挙の絵とやらはどこにございますので」 「はい、それがこういうわけでして……」  治兵衛の話によるとこうだった。  山口屋の寮とおなじ川沿いの二町ほどかみてにあたって、花井才三郎という三百石取りの旗本がすんでいる。  その花井家には、先代以来、応挙の筆というかっぱの軸がつたわっているが、それをちかごろ床の間にかけておくと、朝になって、きまって水にぬれている。  いや、ふしぎなのはそればかりではなく、縁側から床の間まで、べたべたとどろの跡さえついているので、主人をはじめ家中のものが、奇異のおもいを抱いているところへ、きこえてきたのはお糸のうわさだ。  さてこそ、お糸のもとへ夜な夜なかようかっぱというのは、この応挙の絵のかっぱが抜けだすにちがいないということになって、折り助〔中間〕がそれをふれまわったから、ちかごろではこのかいわい、寄るとさわるとこのうわさ。 「親分さん、こんな因果な話が、またとございましょうか」  と、目をしばたたく治兵衛のそばでは、お久がわっと泣きだした。  怪しいのは女中お君   ——はい、あの侍は花井才三郎です 「親分、親分、なんだか妙に話がいりくんできたじゃありませんか」 「ほんまにけったいな話やなア。左甚五郎《ひだりじんごろう》の彫った竜《りゅう》は、夜な夜な水を飲みに抜けだし、探幽のかいた馬の絵は、毎夜お杉戸《すぎど》を抜けだして、お庭のはぎを食うたちゅう話やが、名画の奇特で、そんなこともあるのかもしれまへんな」  草双紙通の豆六は、さっそく通を振りまわしているが、佐七はそれにはおかまいなしで、山口屋の寮を出ると、やってきたのは妙見様。  長松の話によると、女中のお君は、妙見様へお参りにいったということだったから、それをここでつかまえようと思ったのだが、その境内にはいると、いきなり豆六が、 「あっ、親分、あれみなはれ。あら、長松ちゅう丁稚《でっち》やおまへんか」  みると、いかにも石灯籠《いしどうろう》のかげにたたずんで、じっとむこうをみているのは、まぎれもなく、さっき山口屋の寮でみた丁稚の長松。 「親分、野郎のうかがっているのは、どうやらむこうの茶店らしゅうございますぜ。ひょっとすると、あの茶店に、お君のやつがいるんじゃありますまいか」 「ふむ、そうかもしれねえ。いいから、ここでようすを見ていてやろう」  三人が見張っているともしらぬ長松は、なおも石灯籠のかげから一心にむこうの茶店をながめていたが、やがて、どきっとしたように身をひいた。  おやと佐七がむこうをみると、いましも茶店のおくから出てきたのは、二十七、八の若侍、黒紋付きの着流しに、朱鞘《しゅざや》の大小を落としざしにして、頭は五分|月代《さかやき》、にがみ走ったいい男だった。  長松はこの侍のすがたをみると、ひどくおどろいたようすだったが、それでもまだ石|灯籠《どうろう》にしがみついたまま、熱心にむこうをみている。  すると、侍のすがたが境内からみえなくなったころになって、そわそわと茶店のおくからでてきたのは、としのころ十七、八、器量はまず十人並みだが、どこか陰気な影のある娘だった。  娘は髪をかきあげながら、いそぎあしで境内から出ていった。 「親分、あれがお君にちがいおまへんで」 「ふむ、そうらしいな」  佐七はすばやく思案をきめると、 「辰、豆六、お君はあとでもいい。ここでひとつ長松をしめあげてやろうじゃねえか」  と、つかつかと長松のそばへよると、 「長松、こんなところでなにをしているんだ」  長松は、あっとさけんで逃げようとしたが、おっとどっこい、佐七はすばやくその帯をひっつかみ、 「これ、これ、逃げることはねえ。てめえ、お君をつけてきたな。お君になにかおかしいところでもあるのか。それをひとつ聞こうじゃねえか」  三人の男に取りかこまれて、長松はもうすっかり観念していた。  それからまもなく、お君が出てきた茶店のひと間へつれこまれると、長松は悪びれずにこんなことをいった。 「親分さん、わたしがお君さんをおかしいと思ったのは、お君さんがわたしどもに、毒を盛っていることに気がついたからでございます」  長松は子どもごころに、お糸のところへ忍んでくるかっぱというのが見たくてたまらなかった。そこで、毎晩、きょうこそは起きていようとがんばるのだが、子《ね》の刻になると、どうしても防ぎようのない睡魔におそわれ、われにもなく、とろとろと眠ってしまうのである。  それがじぶんばかりでなく、乳母のおもんさんもそうだときき、子どもごころに変に思った。そこで、それとなく家人のようすに気をつけていると、ある日お君が茶のなかへ、あやしい薬をいれたのを見たというのである。 「ふふん。しかし、長松、それじゃおまえはなぜそのことをご主人に申し上げねえんだ」 「いえ、それが……ひょっとすると、お君さんが、そんなことをするのも、お糸さまの申しつけではないかと思いまして……」  なるほど、もっともな斟酌《しんしゃく》に、佐七はいっそう長松の心づかいに感服した。 「ふむ、それじゃ、お糸さんの迷惑になっちゃならぬと、いままで黙っていたというのだな。いい心掛けだ。ときに、長松」 「はい」 「おまえ綾瀬《あやせ》で出会ったという怪物を、なんだと思う。やっぱりかっぱだとおもうか」 「親分、あれならかっぱではございません。たしかに人間でございました」  長松は言下にキッパリ答えた。 「ほほう、おまえどうしてそれがわかる」 「はい、はじめのときはわたしも、又蔵さんのいうとおりかっぱかとおもいましたが、二度目にみたときは、たしかに人間であることがわかりました。顔中まっくろで、それはそれは気味わるい目付きをしておりましたが、たしかに人間の着るきものを着ているのがみえました」 「ふうむ。しかし、それならなぜそのことを、お糸さんにいわねえのだ」 「申しました。なんども申しましたが、お糸さまはお取りあげになりません。かえってわたしはしかられました。お糸さまがどうしてあの男をかっぱにしたがるのか、わたしにはわけがわかりません」  長松のことばに三人は顔を見合わせたが、 「よし、わかった。いまにそのなぞもといてやるが、長松、もうひとつたずねるが、さっきお君がこの茶店であっていたあの男はどこのどういうお侍だ」  長松はそれを聞くと、さっと顔色をかえて、 「親分、わたしもお君さんがなぜあのひととこんなところで会っていたのか、さっぱりわけがわかりません。お君さんは、しんねり強いところのあるひとですが、それほど悪いひとともおもわれませんのに……あのお侍なら、たしかに花井才三郎です」  佐七はじめ辰と豆六は、それを聞くと、あいた口がふさがらなかった。  かっぱの正体島破り   ——軸のすみにはお袖《そで》という字が血で 「辰、豆六、おまえたちに頼みがある。ご苦労だが、遠っ走りをしてくれ」 「へえ、遠っ走りと申しますと?」 「綾瀬のほうへいって、いまから半月ほどまえに、そのへんでなにか変わったことはなかったか聞いてくるんだ。まっくろな顔をした男、そういうへんてこなやつを見かけたものはねえか、調べてきてくれ」 「おっと合点だ。豆六、それじゃ出かけよう」  長松をかえしたあとで、ついでのことにその茶店で、昼飯を食ってしまったそのあとで、辰と豆六を出してやった人形佐七、じぶんはそれからただひとり、やってきたのは花井才三郎の屋敷のほとり。  いったい、才三郎という人物がこの一件にどういうつながりを持っているのかわからないが、近所できいてみると、ことごとくひょうばんがよろしくない。としは二十七、八だが、いまだに無妻で、きわめつきの道楽者らしい。  佐七はいよいよかっぱの軸が気になって、なんとかしてひとめそれを見たいものだと思いながら、屋敷のまえをうろついていると、おりよく屋敷のなかから出てきたのは仲間《ちゅうげん》らしい男、どうせこんな屋敷に勤めているやつにろくなのはいない。  いっけん、渡り者らしいそのようすに、佐七はにやりと笑うと、うしろからぽんと肩をたたいた。 「兄い、めずらしいじゃないか。おまえとここで会おうたあ思わなかった」  だしぬけに声かけられて、相手はびっくりしたように、 「おや、おまえはだれだっけな」 「だれだっていいじゃねえか。ほらよ、いつか近江様《おうみさま》のお屋敷の賭場《とば》で、おまえにさんざんやっかいになった……おれゃアあのときのことが忘れられねえ。いつかは埋め合わせをしてえと思っていたが、ここで会ったのはさいわいだ。おお、あすこに居酒屋がみえるが、一杯つきあっておくんなさい」  ぺらぺらと浴びせかけられ、折り助はあっけにとられた顔色だったが、 「おまえがおごるというのかい」  おごってもらえるなら、相手がだれだってかまわないという調子である。 「なに、おごるというほどのこたアできねえが、きょうのところは心配はかけねえ。まあ、つきあってくんなさい」  と、きつねにつままれたようなかおをした折り助をむりやりに居酒屋へつれこんだ人形佐七、調子よく酒を飲ませながら、 「そうそう、兄い、いまでてきた屋敷は、たしか花井様のお屋敷だったな」 「そうよ。それがどうした」 「どうしたって、花井様のお屋敷といやアちかごろひょうばんじゃねえか。ほら、かっぱの軸がどうかしたって……」 「おお、あのことか、あれゃアまったくふしぎだなあ」  すでに、だいぶ酔いのまわった折り助は、とろんとした目に、けげんそうな色をうかべていた。  単純な折り助は、まこと掛け軸の奇跡を信じているらしく、しきりに小首をかしげていたが、佐七はここぞと身をのりだして、 「それじゃやっぱりほんとうか。ふうむ、ふしぎなこともあればあるもんだなあ。兄い」 「なんだえ」 「どうだろう。おれにひとつ、その掛け軸というのを見せちゃくれまいか。そういう奇瑞《きずい》のある絵なら、話の種においらも見ておきてえが……」  そのとたん、かちんと杯を下においた折り助は、つめたくせせら笑うように、 「どうも変だと思ったが、やっとわかった。てめえ八丁堀の手先だな」  佐七はしまったと思ったが、さあらぬていで、 「はっはっは、おれがなんだっていいじゃねえか。やぼなことはいいっこなしさ。おまえだって、花井様の馬前で討ち死にするような忠義者じゃあるめえ。なあ、おい、兄い」  ポンと肩をたたくひょうしに、あいてのふところへ滑りこませた紙包みを折り助は目を丸くしてひらいてみたが、やがてにやにや笑うと、 「あっはっは、こいつはおまえのいうとおりだ。いいよ、のみこんだ。おれといっしょにくるがいい」 「いいのか、大丈夫か、用人や若党は……」 「べらぼうめ、そんな気のきいたやつがいるお屋敷なら、おれなんざ三日と勤まるものか」  なるほど、折り助が自慢するだけあって、花井のお屋敷のものすごさは言語に絶していたが、佐七にはそんなことはどうでもよい。目的はただ応挙のかっぱにあるのだが、その一軸は、座敷の床《とこ》にかかっていた。  佐七にも、それがはたして、応挙の筆かどうかはわからなかった。なるほど、柳の下のかっぱの姿がかなりたくみに描いてあったが、どうみても、それが夜な夜な軸から抜け出すほどの名画とは思えなかった。 「はてな」  佐七はおもわず小首をかしげたが、そのとき、ふと目についたのは、軸の右すみにべっとり墨をぬったあと。  おや、どうしてあんなところに墨を塗ったのだろうと、佐七は額をよせてながめたが、そのとたん、おもわずぎょっと息をのんだ。  塗りつぶした墨のしたから、玉虫色に光っているのは「そで」という二文字。しかも、どうやら、それは血で書いたらしい。  そで——。  そでとは、お君の姉のお袖のことではあるまいか。しかし、漆のために自害したお袖の名が、しかも血潮で、どうしてこんなところに書いてあるのだろう。  佐七にはいよいよわけがわからなくなったが、その夜、綾瀬《あやせ》からかえってきた辰と豆六の話によると、 「親分、わかりました。あのかっぱというのは、どうやら、徳蔵という島破りらしゅうございます」 「なに、徳蔵? してして、その徳蔵というのがどうしたのだ」 「へえ、なんでも島をやぶって綾瀬にある吉五郎というばくち打ちのところにかくれているところを、あの日、御用風をくらって水の中へとび込み、いまだにゆくえがしれないそうです」 「おまけに、親分、そいつはやけどをしたとやらで、顔中まっくろけなあざがあるちゅう話しだす」  ふたりの報告をきいて、佐七はふいに目を光らせると、やがてポンとひざをたたいた。 「ふうむ。そしてそいつの名は徳蔵というんだな。徳蔵——徳蔵——なるほど、そうだ」  出水騒ぎかっぱ騒ぎ   ——どうぞねんごろに供養をしてあげて  これであらかたなぞは解けた、——と、そのとき、佐七はそう考えたのである。  お糸がどうして、夜な夜な忍びこむくせ者の正体をひたかくしにしているのか、それらの事情も、徳蔵の正体さえわかれば、おのずからとけるなぞである。 「辰も豆六もよくききねえ。徳蔵というのは、お糸の兄の徳太郎にちがいねえ。徳太郎はけんかで殺されたということになっているが、それはなにかの間違いで、きっと、まだ生きているのだろう。その後ますます身を持ちくずし、とうとう島送りになったが、それをやぶって綾瀬に潜伏しているところを、御用風をくらって逃げる途中、はからずも妹の姿を見つけたんだ。そこで、あとをつけてきて、お糸が柳島の寮にいるのをたしかめると、その晩こっそり忍んできたのだ。つまり、かっぱの正体というのは、徳蔵のことよ。顔にやけどをしているのは、姿をかえるために、わざと焼きゃアがったにちがいねえ」 「なるほど、お糸にとっちゃ実の兄い、乳母にもいえねえところから、とっさにかっぱだとうそをつきゃアがったんだな」 「そや、そや、それがもとで、それからのちも、あくまでかっぱで押し通そうというのやな。そして、お君のやつもぐるにちがいおまへんで」 「そうよ、お君にとっても、姉の亭主《ていしゅ》になるはずだった徳太郎、かばい立てするのもむりはねえが、それにしてもおれにゃお君のそぶりに解《げ》せねえふしがある」 「はて、お君に解せねえふしというのは?」 「まあ、考えてみねえ。徳太郎をかっぱにしたてるのはいいが、若い娘のもとへかっぱがしのぶなどといううわさが世間の口の端にのぼりゃ、当然お糸にきずがつく。それくらいのことがわからぬ娘じゃねえはずだのに、お君がああして吹聴《ふいちょう》するところをみると、お君にゃあまた、お君の魂胆があるにちがいねえ」 「親分、お君の魂胆てなんだっしゃろ」 「それよ、これゃおれの当て推量だが、お君のやつは姉の自害を根にもっていやアがるにちがいねえ。お君の姉のお袖は、玉の輿《こし》にのるまぎわに、漆にかぶれて自害した。しかも、その漆かぶれというのも、山口屋からおくられた道具のためだ。してみりゃ、うらみは山口屋にあるどうり。さてこそ、こんどの一件で、お糸が兄の名前をいいかねているのをみると、これをすっかりかっぱに仕立てて、お糸に傷をつけ、あわよくばお糸の縁談をぶっこわそうという腹にちがいねえ」 「あっ、なるほど」  辰と豆六はいまさら女の陰険さに舌をまいて驚嘆したが、最後にひとつわからないのは、かっぱの軸に書いてあった『そで』という血文字。  じっさい、後日にいたって分明したところによると、佐七の推量は、ほとんど正鵠《せいこう》を射ていたといっていい。  ただ、このとき解釈に苦しんだなぞの血文字、そこにこそ、もうひとつの大きな秘密が伏在し、そのためにやがて血なまぐさい惨劇が起ころうとは、神ならぬ身のしるよしもなかったのである。 「で、親分、どうします。こうしてかっぱの正体がわかってみりゃ捨ててはおけねえ。かりにも、あいては島破りの大罪人だ。網を張ってひっくくってしまいましょうか」  きんちゃくの辰は勢いこんだが、 「よせよせ、お糸がああしてじぶんの名まで、捨ててかばっている兄だ。もう少し生かしておいてやろうじゃねえか。なに、おれが手出しをしなくとも、どうせ徳太郎も長いことはあるめえぜ」  いつにかわらぬ佐七の温かい思いやりだったが、あとからおもえばこの思いやりこそ仇《あだ》だった。  こうして、佐七が手をひいたともひかぬともつかぬかっこうで数日過ごしているうちに、ある晩ものすごい雨が降った。  このときの雨は、年代記にものこるほど猛烈なもので、そうでなくとも土地の低い江東方面は、いたるところ出水騒ぎ、深川などは半分いじょうも水のなかに沈んでしまった。  それでも雨はまだ降りやまず、本所方面でもいまに高潮が押し寄せるだろうと、戦々恐々たるありさまだったが、その騒ぎのなかにまたひとつ、珍事が持ちあがったのである。  出水のなかに、顔中まっくろなあざのある、それこそかっぱのような人間が浮きあがった。しかも、そいつは左の肩から胸へかけて、みごとに切られているというのである。  うわさは野火のようにひろがって、お玉が池まできこえてきたから、 「しまった!」  と、顔色かえたのは人形佐七だ。  すぐさま辰と豆六をひきつれて、死体のあがったという押上村までかけつけたが、なにしろまえにもいうとおり、かいわいは出水騒ぎでたいへんな混雑だ。  それでもようやく舟をやとって、死体をひきとったという自身番までこぎつけたが、ひとめみて、それが問題の島破りの徳蔵にちがいないことが想像された。  それにしても、その死体はなんという気味悪い顔だろう。まっくろに焼けただれた顔は、かっぱとまちがえられるのもむりはないほどやせこけて、骨ばって、かっと見開いた目のものすごさ。  佐七はしばらくみごとなその切り口をながめていたが、やがてふたりをふり返ると、 「辰、豆六、ともかく山口屋のだんなをよんでこい。だが、この死体のことはなんにもいうな」 「おっと、合点だ」  辰と豆六はまだ降りやまぬ雨のなかを、舟にのってとび出していったが、やがて、連れてきたのは山口屋の治兵衛。 「親分さん。至急こいとの使いでございましたが、なにかわたしにご用でございますか」  不安らしい治兵衛の目付きに、佐七は気の毒そうな微笑を投げながら、 「いや、雨のなかをご苦労さまでございました。お呼び申したのはほかでもありません。だんなにひとつ、これを鑑定していただきたいので」  佐七がむしろをとってみせると、治兵衛はぎょっとしたように息をのんだ。 「だんな、こいつは顔に大やけどをしておりますが、やけどのないものとして、ようくごらんください。どこかで、見おぼえのあるひとじゃございませんか」  治兵衛はそういわれて、ふしぎそうに死体の顔をみていたが、ふいにうしろへのけぞると、 「やあ、やあ、こ、これは……」 「しっ、だんな、そのあとはおっしゃらないほうがよろしゅうございます」  佐七はすばやくむしろをかけて、 「だんな、これでおわかりになりましたろう。お糸さんのかばっていたかっぱというのは、この男でございました。いずれ死体はひきとって、ねんごろに供養しておあげなさいまし」 「親分さん」  治兵衛の目からは、ふいに涙があふれてきた。  意外なる掛け軸のなぞ   ——お袖の自害は漆のせいではなく  それからまもなく、治兵衛はじめ一同は、舟にのって、ひとまず、柳島の寮までひきあげることになったが、その船中で治兵衛は、涙にくれながら、 「親分さん、まるで夢のようでございます。あれはもう二年まえに死んだとばかり。げんに、その日を命日に、供養をしていたのでございます」 「そうでございましょう。それだからこそ、お糸さんも、おまえさんがたを驚かさぬよう、ひた隠しに隠しておいでになったのでございましょう。徳太郎さんも徳太郎さんで、身を持ちくずしたというものの、やっぱりむかしは若だんな、山口屋ののれんに傷がつかぬよう、またおまえさんたちにこのうえの嘆きをみせぬようと、いっさい身分をかくしていたのでございましょう」  それを聞くと、治兵衛はいよいよ涙にむせんだが、 「いや、親分さん、これでなにもかもわかりました。そういえば、お糸はけさからひどい悲しみに、涙に暮れておりましたが、あれはきっと徳太郎が殺されたことを知っていたにちがいございませぬ」  なにげなくいった治兵衛のことばに、佐七は思わずはっとした。 「なに、お糸さんが徳太郎の殺されたことを知っていたとおっしゃるので?」 「はい、そうとしか思えません。それに、もうひとつふしぎなのは、お君の姿がけさからみえませんので」  お君の姿がみえないと聞いたとき、佐七の頭にはさっとひらめくものがあった。 「もし、船頭さん、この舟は山口屋さんの寮を素通りして、花井様の屋敷へつけてくれ」  これをきいて一同は妙な顔をしていたが、だれも口をきくものはなかった。  そのころから、雨はようやく小降りになったが、あたりいちめんは大海原、堀《ほり》も畑もひとつになって、水のなかに点々と家が浮いている。  山口屋の寮も、はんぶん水に沈んでいた。それを左に見すごして、花井の屋敷に舟をつけると、これまた水のなかで、いまにもひっくり返りそうなかっこうだった。  佐七は庭まで舟を入れさせたが、みると、このあいだの座敷が、この大水にもかかわらず、開けっ放しになっている。  さいわい、水は床下すれすれのところでとまっていたが、その座敷のなかへ踏み込んだとたん、一同はおもわずあっとたじろいだ。  薄暗い座敷の天井から、お君のからだがぶら下がり、そのしたには、花井才三郎がのどをかき切られて、あけに染まって倒れていた。 「あっ、親分さん、これは……」 「だんな、お君は花井才三郎ののどをかききり、じぶんもくびれて死んだにちがいございませぬ」  その才三郎の死骸《しがい》のうえには、ふしぎなことに、あのかっぱの軸がのせてあった。 「しかし、しかし、親分さん、お君がなんだって花井様を……」 「さあ、そのわけも、お糸さまがご存じでございましょう。辰、豆六、おれは寮へひきかえすから、おまえたちはここに残っていろ」  それからまもなく、治兵衛とともに山口屋の寮へやってきた佐七、すぐさまお糸の居間へとおると、 「お糸さま、こうなったらなにもかくさずいってくださいまし。徳太郎さんを殺したのは、花井才三郎でございましょう。しかし、花井さんと徳太郎さんとは、いったいどういう関係があるんです」  お君が才三郎を殺してくびれて死んだときいて、いよいよ涙に沈んでいたお糸は、佐七にそう尋ねられると、はじめてきっとおもてをあげて、 「花井さんは兄さんにとっても、お君にとっても敵《かたき》だったんです。お袖さんを殺したのは、とりもなおさず花井さんでございました」  これをきいて治兵衛は申すにおよばず、佐七もあっとおどろいたが、お袖の自害には、いままでひとに知られなかったあわれな秘密があったのである。  お袖が自害したのは、漆かぶれのせいではなかった。彼女は花井才三郎に手込めにされたことを悲しんで、いさぎよく自決したのであった。  祝言の日もまぢかにせまったある日、お袖は本所のおくへ使いにいった。そして、その帰りみちで花井才三郎にぶつかった。あたりには人影もなかった。才三郎はお袖にいどみかかった。お袖はむろんこばんだ。助けを呼んだ。  才三郎はお袖にさるぐつわをはめた。目隠しをした。そして、じぶんの屋敷に担ぎこんだ。お袖をかえすときにも、目隠しをすることを忘れなかった。  だから、お袖はじぶんの担ぎこまれたお屋敷がどこであるか、じぶんを傷つけたあいてが何者であるか、少しも知らなかった。  ただ、お袖の印象にはっきり残っているのは、じぶんのつれこまれた屋敷の床《とこ》に、奇妙な掛け軸のかかっていることだった。その掛け軸はかっぱの絵だった。しかも、お袖はあいてのゆだんをみすまして、その掛け軸のすみにじぶんの名を、小指の血でかいておいたのである。  お袖はこの秘密をだれにも語らなかった。母や妹にさえかくしていた。だから、お袖が自害したとき、世間のひとはみんな、漆かぶれのせいだとばかり信じていた。  だが、ここにひとりだけ、その秘密を知っているものがあった。徳太郎である。お袖は自害するまえに、こまごまとそのことを徳太郎に書いてやったのである。かっぱの掛け軸のかかった屋敷の主人こそ、じぶんのかたきであると書きそえて。  徳太郎はむろん、お袖の恥になるような、それらの事情を、だれに語ろうともおもわなかった。だが、恨みはながくかれの胸にもえていた。身を持ちくずしてからも、かれは、かっぱの掛け軸のかかった屋敷を探すことを忘れなかった。  さすが凶悪無残な才三郎も、その当座はねざめがわるく、お袖の名をぬりつぶすと、かっぱの掛け軸は箱のおくふかくひそめておいたが、ちかごろお糸のところへかっぱがかようというひょうばんをきくと、また持ちまえのいたずらごころが頭をもちあげた。  ひとを——ことに若いきれいな娘を傷つけたり、中傷したりするのが、この無頼漢の趣味だった。才三郎はべつにお糸に執着や恨みがあるわけではなかった。そういうめずらしい話をきくと、黙っていられないのがかれの性分だった。  かれは箱のなかからふたたびかっぱの掛け軸をとりだすと、子どもだましのような怪談をでっちあげ、ひとり悦に入っていた。  ところで、お君だが、いつか佐七がいったような理由から、お君はいちずに山口屋をうらんでいた。ことに、わかく美しいお糸をみると、いまさらのように姉の不幸が思い出され、お糸の幸福を奪うためには、どんな手段も辞さなかった。  目の寄るところには玉が寄るで、こうしていつか、お君は才三郎とちかづいた。  ふしぎなことには、お袖がじぶんを傷つけたあいてを知らなかったと同様に、才三郎のほうでも、一夜手ごめにしたお袖を、どこの娘ともしらずにいたのである。  だから、お君がその女の妹であろうなどとは、想像もできないことだった。ただ、かれはおもしろ半分に、かっぱの怪談をでっちあげたのだが、このいたずらごころこそは身の破滅となった。  花井才三郎のかっぱの掛け軸のことは、山口屋夫婦がしっていたくらいだから、お糸の耳にもはいっていた。そして、お糸の口から徳太郎はきいた。徳太郎はここにはじめて、かっぱの掛け軸のありかを知ったのである。  そこで、あの大雨のさいちゅうに、花井の屋敷にのりこんだのだが、あいてはくさっても武士だ。ぎゃくに深手を負うて、ようやく山口屋の寮まで逃げのびたが、そこではじめて、お糸やお君に、お袖自害のほんとうの原因をうちあけた。  そして、花井才三郎こそお袖のかたきであるとつげて死んだのである。  これをきいて、のけぞるばかりにおどろいたのはお君だ。お糸にたいしても、姉にたいしてもすまなかった。げんざい姉のかたきの才三郎に……そう考えると、お君は気も狂わんばかりだった。  そこで、徳太郎の死体を水葬礼にすると、その足で才三郎の屋敷へかけつけた。それからあとは、みんなも知っているとおりである。  これだけのことを話しおわると、お糸は涙ながらに一通の手紙を取りだした。 「ここにお君の書き置きがございます。これには、兄さんのことは書いてございませぬが、かっぱのうわさを立てたのはみんなじぶんと才三郎がしたことと、くわしく書いてございます。お君はこれを渡すとき、お嬢様、この書き置きを証拠に、めでたくお輿入《こしい》れなさいまし。草葉の陰から、きっとお嬢様の身をお守りいたしますと申してくれました」  お糸はそういうと、こらえかねたように、わっとその場に泣き伏したのである。  お君の一念がとどいたのか、それからまもなく、お糸にからまるあのいまわしいうわさも消えて、お糸はめでたく輿入れしたが、ここに奇抜なのはかっぱの掛け軸で、こういういまわしい軸をいつまでも残しておくのはよろしくない、ひとつ焼きすててしまおうではないかと、関係者一同が相談したが、さてその日を翌年の、品川のかっぱ天王の祭りの日にきめたというのは、どこまでも江戸時代の人間らしい。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳◆(巻四) 横溝正史作 二〇〇五年六月一日